らうか。空も山も青い田も、飢ゑてゐる者の眼には虚しく映つた。
夜は燈火が山の麓から田のあちこちに見えだした。久振りに見る燈火は優しく、旅先にでもゐるやうな感じがした。食事の後片づけを済ますと、妹はくたくたに疲れて二階へ昇つて来る。彼女はまだあの時の悪夢から覚めきらないもののやうに、こまごまとあの瞬間のことを回想しては、ブルブルと身顫をするのであつた。あの少し前、彼女は土蔵へ行つて荷物を整理しようかと思つてゐたのだが、もし土蔵に這入つてゐたら、恐らく助からなかつただらう。私も偶然に助かつたのだが、私が遭難した処と垣一重隔てて隣家の二階にゐた青年は即死してゐるのであつた。――今も彼女は近所の子供で家屋の下敷になつてゐた姿をさまざまと思ひ浮かべて戦くのであつた。それは妹の子供と同級の子供で、前には集団疎開に加はつて田舎に行つてゐたのだが、そこの生活にどうしても馴染めないので両親の許へ引取られてゐた。いつも妹はその子供が路上で遊んでゐるのを見ると、自分の息子も暫くでいいから呼戻したいと思ふのであつた。火の手が見えだした時、妹はその子供が材木の下敷になり、首を持上げながら、「をばさん、助けて」と哀願するのを見た。しかし、あの際彼女の力ではどうすることも出来なかつたのだ。
かういふ話ならいくつも転がつてゐた。長兄もあの時、家屋の下敷から身を匐ひ出して立上ると、道路を隔てて向の家の婆さんが下敷になつてゐる顔を認めた。瞬間、それを助けに行かうとは思つたが、工場の方で泣喚く学徒の声を振切るわけにはゆかなかつた。
もつと痛ましいのは嫂の身内であつた。槇氏の家は大手町の川に臨んだ閑静な栖ひで、私もこの春広島へ戻つて来ると一度挨拶に行つたことがある。大手町は原子爆弾の中心といつてもよかつた。台所で救ひを求めてゐる夫人の声を聞きながらも、槇氏は身一つで飛び出さねばならなかつたのだ。槇氏の長女は避難先で分娩すると、急に変調を来たし、輸血の針跡から化膿して遂に助からなかつた。流川町の槇氏も、これは主人は出征中で不在だつたが、夫人と子供の行衛が分らなかつた。
私が広島で暮したのは半年足らずで顔見知も少かつたが、嫂や妹などは、近所の誰彼のその後の消息を絶えず何処かから寄せ集めて、一喜一憂してゐた。
工場では学徒が三名死んでゐた。二階がその三人の上に墜落して来たらしく、三人が首を揃えて、写真か何かに見入つてゐる姿勢で、白骨が残されてゐたといふ。纔かの目じるしで、それらの姓名も判明してゐた。が、T先生の消息は不明であつた。先生はその朝まだ工場には姿を現してゐなかつた。しかし、先生の家は細工町のお寺で、自宅にゐたにしろ、途上だつたにしろ、恐らく助かつてはゐさうになかつた。
その先生の清楚な姿はまだ私の目さきにはつきりと描かれた。用件があつて、先生の処へ行くと、彼女はかすかに混乱してゐるやうな貌で、乱暴な字を書いて私に渡した。工場の二階で、私は学徒に昼休みの時間英語を教へてゐたが、次第に警報は頻繁になつてゐた。爆音がして広島上空に機影を認めるとラジオは報告してゐながら、空襲警報も発せられないことがあつた。「どうしますか」と私は先生に訊ねた。「危険さうでしたらお知らせしますから、それまでは授業してゐて下さい」と先生は云つた。だが、白昼広島上空を旋回中といふ事態はもう容易ならぬことであつた。ある日、私が授業を了へて、二階から降りて来ると、T先生はがらんとした工場の隅にひとり腰掛けてゐた。その側で何か頻りに啼声がした。ボール箱を覗くと、雛が一杯蠢いてゐた。「どうしたのです」と訊ねると、「生徒が持つて来たのです」と先生は莞爾笑つた。
女の子は時々、花など持つて来ることがあつた。事務室の机にも活けられたし、先生の卓上にも置かれた。工場が退けて生徒達がぞろぞろ表の方へ引上げ、路上に整列すると、T先生はいつも少し離れた処から監督してゐた。先生の掌には花の包みがあり、身嗜のいい、小柄な姿は凜としたものがあつた。もし彼女が途中で遭難してゐるとすれば、あの沢山の重傷者の顔と同じやうに、想つても、ぞつとするやうな姿に変り果てたことだらう。
私は学徒や工員の定期券のことで、よく東亜交通公社へ行つたが、この春から建物疎開のため交通公社は既に二度も移転してゐた。最後の移転した場所もあの惨禍の中心にあつた。そこには私の顔を身憶えてしまつた、色の浅黒い、舌足らずでものを云ふ、しかし、賢こさうな少女がゐた。彼女も恐らく助かつてはゐないであらう。戦傷保険のことで、よく事務室に姿を現してゐた、七十すぎの老人があつた。この老人は廿日市町にゐる兄が、その後元気さうな姿を見かけたといふことであつた。
どうかすると、私の耳は何でもない人声に脅やかされることがあつた。牛小屋の方で、誰かが頓狂な喚
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