になかった。
 その先生の清楚《せいそ》な姿はまだ私の目さきにはっきりと描かれた。用件があって、先生の処へ行くと、彼女はかすかに混乱しているような貌《かお》で、乱暴な字を書いて私に渡した。工場の二階で、私は学徒に昼休みの時間英語を教えていたが、次第に警報は頻繁《ひんぱん》になっていた。爆音がして広島上空に機影を認めるとラジオは報告していながら、空襲警報も発せられないことがあった。「どうしますか」と私は先生に訊《たず》ねた。「危険そうでしたらお知らせしますから、それまでは授業していて下さい」と先生は云った。だが、白昼広島上空を旋回中という事態はもう容易ならぬことではあった。ある日、私が授業を了《お》えて、二階から降りて来ると、先生はがらんとした工場の隅《すみ》にひとり腰掛けていた。その側で何か頻《しき》りに啼声《なきごえ》がした。ボール箱を覗《のぞ》くと、雛《ひな》が一杯|蠢《うごめ》いていた。「どうしたのです」と訊ねると、「生徒が持って来たのです」と先生は莞爾《にっこり》笑った。
 女の子は時々、花など持って来ることがあった。事務室の机にも活《い》けられたし、先生の卓上にも置かれた。工
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