は大手町の川に臨んだ閑静な栖《すま》いで、私もこの春広島へ戻って来ると一度|挨拶《あいさつ》に行ったことがある。大手町は原子爆弾の中心といってもよかった。台所で救いを求めている夫人の声を聞きながらも、槇氏は身一つで飛び出さねばならなかったのだ。槇氏の長女は避難先で分娩《ぶんべん》すると、急に変調を来たし、輸血の針跡から化膿《かのう》して遂《つい》に助からなかった。流川町《ながれかわちょう》の槇氏も、これは主人は出征中で不在だったが、夫人と子供の行方が分らなかった。
 私が広島で暮したのは半年足らずで顔見知も少かったが、嫂や妹などは、近所の誰彼のその後の消息を絶えず何処《どこ》かから寄せ集めて、一喜一憂していた。
 工場では学徒が三名死んでいた。二階がその三人の上に墜落して来たらしく、三人が首を揃《そろ》えて、写真か何かに見入っている姿勢で、白骨が残されていたという。纔《わず》かの目じるしで、それらの姓名も判明していた。が、T先生の消息は不明であった。先生はその朝まだ工場には姿を現していなかった。しかし、先生の家は細工町のお寺で、自宅にいたにしろ、途上だったにしろ、恐らく助かってはいそう
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