流れの小川であったが、水は澄んでいて、岩の上には黒とんぼが翅《はね》を休めていた。私はシャツの儘《まま》水に浸ると、大きな息をついた。頭をめぐらせば、低い山脈が静かに黄昏《たそがれ》の色を吸収しているし、遠くの山の頂は日の光に射られてキラキラと輝いている。これはまるで嘘《うそ》のような景色であった。もう空襲のおそれもなかったし、今こそ大空は深い静謐《せいひつ》を湛《たた》えているのだ。ふと、私はあの原子爆弾の一撃からこの地上に新しく墜落して来た人間のような気持がするのであった。それにしても、あの日、饒津《にぎつ》の河原《かわら》や、泉邸の川岸で死狂っていた人間達は、――この静かな眺《なが》めにひきかえて、あの焼跡は一体いまどうなっているのだろう。新聞によれば、七十五年間は市の中央には居住できないと報じているし、人の話ではまだ整理のつかない死骸《しがい》が一万もあって、夜毎《よごと》焼跡には人魂《ひとだま》が燃えているという。川の魚もあの後二三日して死骸を浮べていたが、それを獲って喰った人間は間もなく死んでしまったという。あの時、元気で私達の側に姿を見せていた人達も、その後敗血症で斃《た
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