私がこの春帰郷して義兄の事務所を訪れた時のことがまず目さきに浮んだ。彼は古びたオーバーを着込んで、「寒い、寒い」と顫《ふる》えながら、生木の燻《くすぶ》る火鉢《ひばち》に獅噛《しが》みついていた。言葉も態度もひどく弱々しくなっていて、滅《めっ》きり老い込んでいた。それから間もなく寝つくようになったのだ。医師の診断では肺を犯されているということであったが、彼の以前を知っている人にはとても信じられないことではあった。ある日、私が見舞に行くと、急に白髪の増《ふ》えた頭を持あげ、いろんなことを喋《しゃべ》った。彼はもうこの戦争が惨敗に近づいていることを予想し、国民は軍部に欺かれていたのだと微《かす》かに悲憤の声を洩《も》らすのであった。そんな言葉をこの人の口からきこうとは思いがけぬことであった。日華事変の始った頃、この人は酔っぱらって、ひどく私に絡《から》んで来たことがある。長い間陸軍技師をしていた彼には、私のようなものはいつも気に喰わぬ存在と思えたのであろう。私はこの人の半生を、さまざまのことを憶《おぼ》えている。この人のことについて書けば限りがないのであった。
 私達は己斐《こい》に出ると
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