場が退《ひ》けて生徒達がぞろぞろ表の方へ引上げ、路上に整列すると、T先生はいつも少し離れた処から監督していた。先生の掌《て》には花の包みがあり、身嗜《みだしなみ》のいい、小柄な姿は凛《りん》としたものがあった。もし彼女が途中で遭難しているとすれば、あの沢山の重傷者の顔と同じように、想っても、ぞっとするような姿に変り果てたことだろう。
 私は学徒や工員の定期券のことで、よく東亜交通公社へ行ったが、この春から建物疎開のため交通公社は既に二度も移転していた。最後の移転した場所もあの惨禍の中心にあった。そこには私の顔を見憶《みおぼ》えてしまった色の浅黒い、舌足らずでものを云う、しかし、賢そうな少女がいた。彼女も恐らく助かってはいないであろう。戦傷保険のことで、よく事務室に姿を現していた、七十すぎの老人があった。この老人は廿日市町にいる兄が、その後元気そうな姿を見かけたということであった。

 どうかすると、私の耳は何でもない人声に脅かされることがあった。牛小屋の方で、誰かが頓狂《とんきょう》な喚きを発している、と、すぐその喚き声があの夜河原で号泣している断末魔の声を聯想《れんそう》させた。腸《はらわた》を絞るような声と、頓狂な冗談の声は、まるで紙一重のところにあるようであった。私は左側の眼の隅に異状な現象の生ずるのを意識するようになった。ここへ移ってから、四五日目のことだが、日盛《ひざかり》の路を歩いていると左の眼の隅に羽虫か何か、ふわりと光るものを感じた。光線の反射かと思ったが、日陰を歩いて行っても、時々光るものは目に映じた。それから夕暮になっても、夜になっても、どうかする度《たび》に光るものがチラついた。これはあまりおびただしい焔《ほのお》を見た所為《せい》であろうか、それとも頭上に一撃を受けたためであろうか。あの朝、私は便所にいたので、皆が見たという光線は見なかったし、いきなり暗黒が滑《すべ》り墜《お》ち、頭を何かで撲《なぐ》りつけられたのだ。左側の眼蓋《まぶた》の上に出血があったが、殆《ほとん》ど無疵《むきず》といっていい位、怪我《けが》は軽かった。あの時の驚愕《きょうがく》がやはり神経に響いているのであろうか、しかし、驚愕とも云えない位、あれはほんの数秒間の出来事であったのだ。

 私はひどい下痢に悩まされだした。夕刻から荒れ模様になっていた空が、夜になると、ひどい風雨となった。稲田の上を飛散る風の唸《うな》りが、電燈の点《つ》かない二階にいてはっきりと聞える。家が吹飛ばされるかもしれないというので、階下にいる次兄達や妹は母屋の方へ避難して行った。私はひとり二階に寝て、風の音をうとうとと聞いた。家が崩れる迄《まで》には、雨戸が飛び、瓦《かわら》が散るだろう、みんなあの異常な体験のため神経過敏になっているようであった。時たま風がぴったり歇《や》むと、蛙《かえる》の啼声が耳についた。それからまた思いきり、一もみ風は襲撃して来る。私も万一の時のことを寝たまま考えてみた。持って逃げるものといったら、すぐ側にある鞄《かばん》ぐらいであった。階下の便所に行く度に空を眺めると、真暗な空はなかなか白みそうにない。パリパリと何か裂ける音がした。天井の方からザラザラの砂が墜ちて来た。
 翌朝、風はぴったり歇んだが、私の下痢は容易にとまらなかった。腰の方の力が抜け、足もとはよろよろとした。建物疎開に行って遭難したのに、奇蹟《きせき》的に命拾いをした中学生の甥は、その後毛髪がすっかり抜け落ち次第に元気を失っていた。そして、四肢《しし》には小さな斑点《はんてん》が出来だした。私も体を調べてみると、極く僅《わず》かだが、斑点があった。念のため、とにかく一度|診《み》て貰うため病院を訪れると、庭さきまで患者が溢《あふ》れていた。尾道《おのみち》から広島へ引上げ、大手町で遭難したという婦人がいた。髪の毛は抜けていなかったが、今朝から血の塊《かたまり》が出るという。妊《みごも》っているらしく、懶《だる》そうな顔に、底知れぬ不安と、死の近づいている兆《きざし》を湛《たた》えているのであった。

 舟入川口町にある姉の一家は助かっているという報《しら》せが、廿日市の兄から伝わっていた。義兄はこの春から病臥中《びょうがちゅう》だし、とても救われまいと皆想像していたのだが、家は崩れてもそこは火災を免れたのだそうだ。息子が赤痢でとても今苦しんでいるから、と妹に応援を求めて来た。妹もあまり元気ではなかったが、とにかく見舞に行くことにして出掛けた。そして、翌日広島から帰って来た妹は、電車の中で意外にも西田と出逢《であ》った経緯《いきさつ》を私に語った。
 西田は二十年来、店に雇われている男だが、あの朝はまだ出勤していなかったので、途中で光線にやられたとすれば、とても駄目だ
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