廃墟から
原民喜

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)廿日市《はつかいち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)全身|硝子《ガラス》の破片で

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から2字上げ](昭和二十二年十一月号『三田文学』)
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 八幡村へ移った当初、私はまだ元気で、負傷者を車に乗せて病院へ連れて行ったり、配給ものを受取りに出歩いたり、廿日市《はつかいち》町の長兄と連絡をとったりしていた。そこは農家の離れを次兄が借りたのだったが、私と妹とは避難先からつい皆と一緒に転《ころ》がり込んだ形であった。牛小屋の蠅《はえ》は遠慮なく部屋中に群れて来た。小さな姪《めい》の首の火傷《やけど》に蠅は吸着いたまま動かない。姪は箸《はし》を投出して火のついたように泣喚《なきわめ》く。蠅を防ぐために昼間でも蚊帳《かや》が吊《つ》られた。顔と背を火傷している次兄は陰鬱《いんうつ》な顔をして蚊帳の中に寝転んでいた。庭を隔てて母屋《おもや》の方の縁側に、ひどく顔の腫《は》れ上った男の姿――そんな風な顔はもう見倦《みあき》る程見せられた――が伺われたし、奥の方にはもっと重傷者がいるらしく、床がのべてあった。夕方、その辺から妙な譫言《たわごと》をいう声が聞えて来た。あれはもう死ぬるな、と私は思った。それから間もなく、もう念仏の声がしているのであった。亡《な》くなったのは、そこの家の長女の配偶で、広島で遭難し歩いて此処《ここ》まで戻って来たのだが、床に就《つ》いてから火傷の皮を無意識にひっかくと、忽《たちま》ち脳症をおこしたのだそうだ。
 病院は何時《いつ》行っても負傷者で立込んでいた。三人掛りで運ばれて来る、全身|硝子《ガラス》の破片で引裂かれている中年の婦人、――その婦人の手当には一時間も暇がかかるので、私達は昼すぎまで待たされるのであった。――手押車で運ばれて来る、老人の重傷者、顔と手を火傷している中学生、――彼は東練兵場で遭難したのだそうだ。――など、何時も出喰《でく》わす顔があった。小さな姪はガーゼを取替えられる時、狂気のように泣喚く。
「痛い、痛いよ、羊羹《ようかん》をおくれ」
「羊羹をくれとは困るな」と医者は苦笑した。診察室の隣の座敷の方には、そこにも医者の身内の遭難者が担《かつ》ぎ込まれているとみえて、怪しげな断末魔のうめきを放っていた。負傷者を運ぶ途上でも空襲警報は頻々《ひんぴん》と出たし、頭上をゆく爆音もしていた。その日も、私のところの順番はなかなかやって来ないので、車を病院の玄関先に放ったまま、私は一まず家へ帰って休もうと思った。台所にいた妹が戻って来た私の姿を見ると、
「さっきから『君が代』がしているのだが、どうしたのかしら」と不思議そうに訊《たず》ねるのであった。私ははっとして、母屋の方のラジオの側《そば》へつかつかと近づいて行った。放送の声は明確にはききとれなかったが、休戦という言葉はもう疑えなかった。私はじっとしていられない衝動のまま、再び外へ出て、病院の方へ出掛けた。病院の玄関先には次兄がまだ茫然《ぼうぜん》と待たされていた。私はその姿を見ると、
「惜しかったね、戦争は終ったのに……」と声をかけた。もう少し早く戦争が終ってくれたら――この言葉は、その後みんなで繰返された。彼は末の息子《むすこ》を喪《うしな》っていたし、ここへ疎開するつもりで準備していた荷物もすっかり焼かれていたのだった。
 私は夕方、青田の中の径《みち》を横切って、八幡川の堤の方へ降りて行った。浅い流れの小川であったが、水は澄んでいて、岩の上には黒とんぼが翅《はね》を休めていた。私はシャツの儘《まま》水に浸ると、大きな息をついた。頭をめぐらせば、低い山脈が静かに黄昏《たそがれ》の色を吸収しているし、遠くの山の頂は日の光に射られてキラキラと輝いている。これはまるで嘘《うそ》のような景色であった。もう空襲のおそれもなかったし、今こそ大空は深い静謐《せいひつ》を湛《たた》えているのだ。ふと、私はあの原子爆弾の一撃からこの地上に新しく墜落して来た人間のような気持がするのであった。それにしても、あの日、饒津《にぎつ》の河原《かわら》や、泉邸の川岸で死狂っていた人間達は、――この静かな眺《なが》めにひきかえて、あの焼跡は一体いまどうなっているのだろう。新聞によれば、七十五年間は市の中央には居住できないと報じているし、人の話ではまだ整理のつかない死骸《しがい》が一万もあって、夜毎《よごと》焼跡には人魂《ひとだま》が燃えているという。川の魚もあの後二三日して死骸を浮べていたが、それを獲って喰った人間は間もなく死んでしまったという。あの時、元気で私達の側に姿を見せていた人達も、その後敗血症で斃《た
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