お》れてゆくし、何かまだ、惨として割りきれない不安が附纏《つきまと》うのであった。
食糧は日々に窮乏していた。ここでは、罹災者《りさいしゃ》に対して何の温かい手も差しのべられなかった。毎日毎日、かすかな粥《かゆ》を啜《すす》って暮らさねばならなかったので、私はだんだん精魂が尽きて食後は無性に睡《ねむ》くなった。二階から見渡せば、低い山脈の麓《ふもと》からずっとここまで稲田はつづいている。青く伸びた稲は炎天にそよいでいるのだ。あれは地の糧《かて》であろうか、それとも人間を飢えさすためのものであろうか。空も山も青い田も、飢えている者の眼には虚《むな》しく映った。
夜は燈火が山の麓から田のあちこちに見えだした。久し振りに見る燈火は優しく、旅先にでもいるような感じがした。食事の後片づけを済ますと、妹はくたくたに疲れて二階へ昇って来る。彼女はまだあの時の悪夢から覚《さ》めきらないもののように、こまごまとあの瞬間のことを回想しては、プルプルと身顫《みぶるい》をするのであった。あの少し前、彼女は土蔵へ行って荷物を整理しようかと思っていたのだが、もし土蔵に這入《はい》っていたら、恐らく助からなかっただろう。私も偶然に助かったのだが、私が遭難した処《ところ》と垣《かき》一重隔てて隣家の二階にいた青年は即死しているのであった。――今も彼女は近所の子供で家屋の下敷になっていた姿をまざまざと思い浮べて戦《おのの》くのであった。それは妹の子供と同級の子供で、前には集団疎開に加わって田舎《いなか》に行っていたのだが、そこの生活にどうしても馴染《なじ》めないので両親の許《もと》へ引取られていた。いつも妹はその子供が路上で遊んでいるのを見ると、自分の息子も暫《しばら》くでいいから呼戻したいと思うのであった。火の手が見えだした時、妹はその子供が材木の下敷になり、首を持上げながら、「おばさん、助けて」と哀願するのを見た。しかし、あの際彼女の力ではどうすることも出来なかったのだ。
こういう話ならいくつも転《ころが》っていた。長兄もあの時、家屋の下敷から身を匐《は》い出して立上ると、道路を隔てて向うの家の婆さんが下敷になっている顔を認めた。瞬間、それを助けに行こうとは思ったが、工場の方で泣喚く学徒の声を振切るわけにはゆかなかった。
もっと痛ましいのは嫂《あによめ》の身内であった。槇《まき》氏の家は大手町の川に臨んだ閑静な栖《すま》いで、私もこの春広島へ戻って来ると一度|挨拶《あいさつ》に行ったことがある。大手町は原子爆弾の中心といってもよかった。台所で救いを求めている夫人の声を聞きながらも、槇氏は身一つで飛び出さねばならなかったのだ。槇氏の長女は避難先で分娩《ぶんべん》すると、急に変調を来たし、輸血の針跡から化膿《かのう》して遂《つい》に助からなかった。流川町《ながれかわちょう》の槇氏も、これは主人は出征中で不在だったが、夫人と子供の行方が分らなかった。
私が広島で暮したのは半年足らずで顔見知も少かったが、嫂や妹などは、近所の誰彼のその後の消息を絶えず何処《どこ》かから寄せ集めて、一喜一憂していた。
工場では学徒が三名死んでいた。二階がその三人の上に墜落して来たらしく、三人が首を揃《そろ》えて、写真か何かに見入っている姿勢で、白骨が残されていたという。纔《わず》かの目じるしで、それらの姓名も判明していた。が、T先生の消息は不明であった。先生はその朝まだ工場には姿を現していなかった。しかし、先生の家は細工町のお寺で、自宅にいたにしろ、途上だったにしろ、恐らく助かってはいそうになかった。
その先生の清楚《せいそ》な姿はまだ私の目さきにはっきりと描かれた。用件があって、先生の処へ行くと、彼女はかすかに混乱しているような貌《かお》で、乱暴な字を書いて私に渡した。工場の二階で、私は学徒に昼休みの時間英語を教えていたが、次第に警報は頻繁《ひんぱん》になっていた。爆音がして広島上空に機影を認めるとラジオは報告していながら、空襲警報も発せられないことがあった。「どうしますか」と私は先生に訊《たず》ねた。「危険そうでしたらお知らせしますから、それまでは授業していて下さい」と先生は云った。だが、白昼広島上空を旋回中という事態はもう容易ならぬことではあった。ある日、私が授業を了《お》えて、二階から降りて来ると、先生はがらんとした工場の隅《すみ》にひとり腰掛けていた。その側で何か頻《しき》りに啼声《なきごえ》がした。ボール箱を覗《のぞ》くと、雛《ひな》が一杯|蠢《うごめ》いていた。「どうしたのです」と訊ねると、「生徒が持って来たのです」と先生は莞爾《にっこり》笑った。
女の子は時々、花など持って来ることがあった。事務室の机にも活《い》けられたし、先生の卓上にも置かれた。工
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