ろうと想われていた。妹は電車の中で、顔のくちゃくちゃに腫《は》れ上った黒焦《くろこげ》の男を見た。乗客の視線もみんなその方へ注がれていたが、その男は割と平気で車掌に何か訊ねていた。声がどうも西田によく似ていると思って、近寄って行くと、相手も妹の姿を認めて大声で呼びかけた。その日収容所から始めて出て来たところだということであった。……私が西田を見たのは、それから一カ月あまり後のことで、その時はもう顔の火傷も乾《かわ》いていた。自転車もろとも跳《は》ね飛ばされ、収容所に担《かつ》ぎ込まれてからも、西田はひどい辛酸を嘗《な》めた。周囲の負傷者は殆ど死んで行くし、西田の耳には蛆《うじ》が湧《わ》いた。「耳の穴の方へ蛆が這入ろうとするので、やりきれませんでした」と彼はくすぐったそうに首を傾けて語った。
九月に入ると、雨ばかり降りつづいた。頭髪が脱け元気を失っていた甥がふと変調をきたした。鼻血が抜け、咽喉《のど》からも血の塊をごくごく吐いた。今夜が危なかろうというので、廿日市の兄たちも枕許《まくらもと》に集った。つるつる坊主の蒼白《そうはく》の顔に、小さな縞《しま》の絹の着物を着せられて、ぐったり横《よこた》わっている姿は文楽か何かの陰惨な人形のようであった。鼻孔には棉《わた》の栓《せん》が血に滲《にじ》んでおり、洗面器は吐きだすもので真赤に染っていた。「がんばれよ」と、次兄は力の籠《こも》った低い声で励ました。彼は自分の火傷のまだ癒《い》えていないのも忘れて、夢中で看護するのであった。不安な一夜が明けると、甥はそのまま奇蹟的に持ちこたえて行った。
甥と一緒に逃げて助かっていた級友の親から、その友達は死亡したという通知が来た。兄が廿日市で見かけたという保険会社の元気な老人も、その後|歯齦《はぐき》から出血しだし間もなく死んでしまった。その老人が遭難した場所と私のいた地点とは二町と離れてはいなかった。
しぶとかった私の下痢は漸く緩和されていたが、体の衰弱してゆくことはどうにもならなかった。頭髪も目に見えて薄くなった。すぐ近くに見える低い山がすっかり白い靄《もや》につつまれていて、稲田はざわざわと揺れた。
私は昏々《こんこん》と睡《ねむ》りながら、とりとめもない夢をみていた。夜の燈が雨に濡《ぬ》れた田の面《も》へ洩《も》れているのを見ると頻りに妻の臨終を憶い出すのであった。妻の一周忌も近づいていたが、どうかすると、まだ私はあの棲《す》み慣れた千葉の借家で、彼女と一緒に雨に鎖《と》じこめられて暮しているような気持がするのである。灰燼《かいじん》に帰した広島の家のありさまは、私には殆ど想い出すことがなかった。が、夜明の夢ではよく崩壊直後の家屋が現れた。そこには散乱しながらも、いろんな貴重品があった。書物も紙も机も灰になってしまったのだが、私は内心の昂揚《こうよう》を感じた。何か書いて力一杯ぶつかってみたかった。
ある朝、雨があがると、一点の雲もない青空が低い山の上に展《ひろ》がっていたが、長雨に悩まされ通したものの眼には、その青空はまるで虚偽のように思われた。はたして、快晴は一日しか保たず、翌日からまた陰惨な雨雲が去来した。亡妻の郷里から義兄の死亡通知が速達で十日目に届いた。彼は汽車で広島へ通勤していたのだが、あの時は微傷だに受けず、その後も元気で活躍しているという通知があった矢さき、この死亡通知は、私を茫然《ぼうぜん》とさせた。
何か広島にはまだ有害な物質があるらしく、田舎から元気で出掛けて行った人も帰りにはフラフラになって戻って来るということであった。舟入川口町の姉は、夫と息子の両方の看病にほとほと疲れ、彼女も寝込んでしまったので、再びこちらの妹に応援を求めて来た。その妹が広島へ出掛けた翌日のことであった。ラジオは昼間から颱風《たいふう》を警告していたが、夕暮とともに風が募って来た。風はひどい雨を伴い真暗な夜の怒号と化した。私が二階でうとうと睡っていると、下の方ではけたたましく雨戸をあける音がして、田の方に人声が頻りであった。ザザザと水の軋《きし》るような音がする。堤が崩れたのである。そのうちに次兄達は母屋の方へ避難するため、私を呼び起した。まだ足腰の立たない甥を夜具のまま抱《かか》えて、暗い廊下を伝って、母屋の方へ運んで行った。そこにはみんな起きていて不安な面持であった。その川の堤が崩れるなど、絶えて久しくなかったことらしい。
「戦争に負けると、こんなことになるのでしょうか」と農家の主婦は嘆息した。風は母屋の表戸を烈《はげ》しく揺すぶった。太い突かい棒がそこに支《ささ》えられた。
翌朝、嵐《あらし》はけろりと去っていた。その颱風の去った方向に稲の穂は悉《ことごと》く靡《なび》き、山の端には赤く濁った雲が漾《ただよ》っていた。
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