。
どうかすると妻の衰えた顔には微《かす》かながら活々《いきいき》とした閃《ひらめ》きが現れ、弱々しい声のなかに一つの弾《はず》みが含まれている。すると、彼は昔のあふれるばかりのものが蘇ってくるのを夢みるのだった。まだ元気だった頃、一緒に旅をしたことがある、あの旅に出かける前の快活な身のこなしが、どこかに潜んでいるようにおもえた。綺麗好《きれいず》きの妻のまわりには、自然にこまごましたものが居心地《いごこち》よく整えられていたし、夜具もシイツも清潔な色を湛《たた》えていた。それらには長い病苦に耐えた時間の祈りがこもっているようだった。壁に掛けた小さな額縁には、蔦《つた》の絡《から》んだバルコニーの上にくっきりと碧《あお》い空が覗《のぞ》いていた。それはいつか旅で見上げた碧空のように美しかった。
今にも降りだしそうな冷え冷えしたものが朝から空気のなかに顫《ふる》えていた。電車の窓から見える泥海や野づらの調子が、ふと彼に昨年の秋を回想させるのだった。……一年前の秋、彼と妻の生活は二つに切離されていた。糖尿病を併発した妻は大学病院に入院したが、これからはじまる新しい療養生活に悲壮な決意
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