の方を見上げた。と、彼もまた寝たままで動けない姿勢で、何ものかを見上げているような心持がするのだったが……。
「死んで行ってしまった方がいいのでしょう。こんなに長わずらいをしているよりか」
 それは弱々しい冗談の調子を含みながら、彼の返事を待ちうけている真面目《まじめ》な顔つきであった。だが、彼には死んでゆく妻というものが、まだ容易に考えられなかった。四年前の発病以来、寝たり起きたりの療養をつづけているその姿は、彼にとってはもう不変のもののようにさえ思えていたのだ。
「もとどおりの健康には戻れないかもしれないが、だが寝たり起きたり位の状態で、とにかく生きつづけていてもらいたいね」
 それは彼にとって淡い慰めの言葉ではなかった。と妻の眼には吻と安心らしい翳りが拡《ひろが》った。
「お母さんもそれと同じことを云っていました」
 今、家のうちはひっそりとして、庭さきには秋めいた陽光がチラついていた。そういう穏かな時刻なら、彼は昔から何度も巡《めぐ》りあっていた。だから、この屋根の下の暮しが、いつかぷつりと截《た》ち切られる時のことは、それに脅かされながらも、どう想像していいのかわからなかった
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