溝川《みぞがわ》や楓《かえで》の樹などが落着いた陰翳《いんえい》をもって、それは彼の記憶に残っている昔の郷里の街と似かよってきた。

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ほとんど総《すべ》ての物から 感受への合図が来る。
向きを変える毎《ごと》に 追憶を吹き起す風が来る。
何気なく見逃《みの》がして過ぎた一日が
やがて自分へのはっきりとした贈りものに成って蘇る。
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 いつも頭に浮ぶリルケの詩の一節を繰返していた。

 その春、その街の大学病院を退院して以来、自宅で養生をつづけるようになってからも、妻の容態はおもわしくなかった。夜ひどい咳《せき》の発作におそわれたり、衰弱は目に見えて著しかった。だが、彼の目には妻の「死」がどうしても、はっきりと目に見えて迫っては来なかった。その部屋一杯にこもっている病人の雰囲気《ふんいき》も、どうかすると彼には馴《な》れて安らかな空気のようにおもえた。と、夏が急に衰えて、秋の気配のただよう日がやって来た。その日、彼女の母親は東京へ用足しに出掛けて行ったので、家の中は久しぶりに彼と妻の二人きりになっていた。
 寝たままで動けない姿勢で、妻は彼
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