を閉じると、彼は窓際《まどぎわ》の椅子を離れて、受附のところへ歩いて行った。と、さきほどまで彼の頬に吹寄せていた生温かいが不思議に冷気を含んだ風の感触は消えていた。だが、何かわからないが彼のなかを貫いて行ったものは消えようとしなかった。閲覧室を出て、階段を下りて行きながらも、さきほどの風の感覚が彼のなかに残っていた。
それは沖から吹きよせてくる季節の信号なのだろうか。夏から秋へ移るひそかな兆《きざし》なら彼は毎年見て知っていた。だが、さきほどの風は、まるでこの地球より、もっと遙《はる》かなところから流れて来て、遙かなところへ流れてゆくもののようだった。その中に身を置いておれば、何の不安も苦悩もなく、静かに宇宙のなかに溶け去ることもできそうだ。だが、それにしても何かかなしく心に泌みるものがあるのはどうしたわけなのだろう。
(人間の心に爽やかなものが立ちかえってくるのだろうか。)もしかすると何か全く新しいものの訪れの前ぶれなのだろうか。……彼はまだ、さきほどの風の感触に思い惑いながら往来に出て行った。人通りの少ない、こぢんまりした路は静かな光線のなかにあった。煉瓦塀《れんがべい》や小さな
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