》はあたりの空気を麻痺《まひ》させているようだった。が、ふと彼の眼の四五|米《メートル》彼方《かなた》で、杉の木が小さく揺らいだかとおもうと、そのまま根元からパタリと倒れた。気がつくと誰かがそれを鋸《のこぎり》で切倒していたのだが、今、青空を背景に斜に倒れてゆく静かな樹木の一瞬の姿は、フィルムの一|齣《こま》ではないかとおもわれた。こんな、ひっそりとした死……それは一瞬そのまま鮮《あざや》かに彼の感覚に残ったが、その一齣はそのまま家にいる妻の方に伝わっているのではないかとおもえた。……農家から頒《わ》けてもらったトマトは庭の防空壕《ぼうくうごう》の底に籠《かご》に入れて貯《たくわ》えられた。冷やりとする仄暗《ほのぐら》い地下におかれたトマトの赤い皮が、上から斜に洩《も》れてくる陽《ひ》の光のため彼の眼に泌みるようだった。すると、彼には寝床にいる妻にこの仄暗い場所の情景が透視できるのではないかしらとおもえた。
 ……生暖かい底に不思議な冷気を含んだ風がうっとりと何か現在を追憶させていた。彼はその街にある小さな図書館に入って、ぼんやりと憩《いこ》うことが近頃の習慣となっていたのだ。
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