次を這入《はい》って行くと、疲労感とともに吻と何か甦《よみが》える別のものがある。それが何であるかは彼には分りすぎるぐらい分っていた。
 家を一歩外にすれば、彼には殆ど絶え間なしに、どこかの片隅《かたすみ》で妻の神経が働きかけ追かけてくるような気がした。寝たままで動けない姿勢の彼女が何を考え、何を感じているのか、頻《しき》りと何かに祈っているらしい気配が、それがいつも彼の方へ伝わってくる。どうかすると、彼は生の圧迫に堪《た》えかねて、静かに死の岸に招かれたくなる。だが、そうした弱々しい神経の彼に、絶えず気をくばり励まそうとしているのは、寝たまま動けない妻であった。起きて動きまわっている彼の方がむしろ病人の心に似ていた。妻は彼が家の外の世界から身につけて戻って来る空気をすっかり吸集するのではないかとおもわれた。それから、彼が枕頭《ちんとう》で語る言葉から、彼の読み漁っている本のなかの知織の輪郭まで感じとっているような気もした。
 昨日も彼はリュックを肩にして、ある知りあいの農家のところまで茫々《ぼうぼう》とした野らを歩いていた。茫々とした草原に細い白い路が走っていて、真昼の静謐《せいひつ
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