いる顔ではなく、何かもう外界の空気に堪《た》えられなくなり、外界から拒否されたものの姿らしかった。瞼《まぶた》はだるそうに窄《すぼ》められ、そこから細く覗《のぞ》いている眸《ひとみ》はぼんやりと力なく何ものかを怨《えん》じていた。
 ……一週間前に、妻は小さな手帳に鉛筆で遺書を認《したた》めていた。枕頭に置かれていたので彼も読んでそれは知っていた。けれども、それを認めた妻も読んだ彼も、ほんとうに別離が切迫したものとはまだ信じきれないようだったのだ。
 昨日の夕方、電車を降りて彼が暗い雨のなかを急込《せきこ》んで戻ってくると、家には灯のついた病室が待っていた。彼は妻の枕頭に屈《かが》んで「どうだったか」と訊《たず》ねた。
「今日は気分も軽かったのに、お母さんがひとりでおろおろされるので何か苛々しました」
 枕頭に食べさしの林檎《りんご》が置いてあった。林檎が届いたら、と長い間持ち望んでいたのだが、注文の荷が届いたときには、これはもう彼女の口にあわなくなっていたのだ。ふと、妻は指の爪《つめ》で唇《くちびる》の薄皮をむしりとろうとした。
「どうしてそんなことをするのだ」
「…………」妻は無言
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