で唇の皮を引裂いた。
 ……今、朝の光線で見ると、昨夜|傷《きず》けた唇はひどく痛々しそうだった。やがて、母親が食膳《しょくぜん》を運んでくると妻は普段のように箸《はし》をとった。だが、忽《たちま》ち悲しげに顔を顰《しか》めた。それから、つらそうに無理強《むりじ》いに食事をつづけようとした。殆《ほとん》ど何かにとり縋《すが》るようにしながら悶え苦しんで食事を摂《と》ろうとする姿は見るに堪えなかった。これははじめて見る異様な姿だった。それから重苦しい時間が過ぎて行った。昼の食事は母親がいくらすすめても遂《つい》に摂ろうとしなかった。日が暮れるに随《したが》って、時間は小刻みに顫えながら過ぎて行った。
 夕食の用意が出来て枕頭に置かれた。が、妻は母親のすすめる食事を厭《いと》うように、わずかに二箸ばかり手をつけるだけだった。電灯のあかりの下に、すべてが薄暗くふるえていた。食後の散薬を呑《の》んだかとおもうと、間もなく妻は吐気を催して苦しみだした。今、目には見えないが針のようなものがこの部屋のなかに降りそそいでくるようだった。
 ……ずっと以前から彼も妻も「死」についてはお互によく不思議そう
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