で唇の皮を引裂いた。
……今、朝の光線で見ると、昨夜|傷《きず》けた唇はひどく痛々しそうだった。やがて、母親が食膳《しょくぜん》を運んでくると妻は普段のように箸《はし》をとった。だが、忽《たちま》ち悲しげに顔を顰《しか》めた。それから、つらそうに無理強《むりじ》いに食事をつづけようとした。殆《ほとん》ど何かにとり縋《すが》るようにしながら悶え苦しんで食事を摂《と》ろうとする姿は見るに堪えなかった。これははじめて見る異様な姿だった。それから重苦しい時間が過ぎて行った。昼の食事は母親がいくらすすめても遂《つい》に摂ろうとしなかった。日が暮れるに随《したが》って、時間は小刻みに顫えながら過ぎて行った。
夕食の用意が出来て枕頭に置かれた。が、妻は母親のすすめる食事を厭《いと》うように、わずかに二箸ばかり手をつけるだけだった。電灯のあかりの下に、すべてが薄暗くふるえていた。食後の散薬を呑《の》んだかとおもうと、間もなく妻は吐気を催して苦しみだした。今、目には見えないが針のようなものがこの部屋のなかに降りそそいでくるようだった。
……ずっと以前から彼も妻も「死」についてはお互によく不思議そうな嘆きをもって話しあっていた。人間の最後の意識が杜絶《とだ》える瞬間のことを殆ど目の前に見るように想像さえしていた。少女の頃、一度危篤に瀕《ひん》したことのある妻は、その時見た数限りない花の幻の美しかったことをよく話した。それから妻は入院中の体験から死んでゆく人のうめき声も知っていた。それは、まるで可哀相《かわいそう》な動物が夢でうなされているような声だ、と妻は云っていた。彼も「死」の幻影には絶えず脅かされていた。が、今の今、眼の前に苦しみだしている妻が死に吹き攫《さら》われてゆくのかどうか、彼にはまだわからなかった。「死」が彼よりさきに妻のなかを通過してゆくとは、昔から殆ど信じられないことだったのだ。だが、たとえ今「死」が妻に訪れて来たとしても、眼の前にある苦しみの彼方《かなた》に妻はもう一つ別の美しい死を招きよせるかもしれない。それは日頃から彼女の底にうっすらと感じられるものだった。彼も今、最も美しいものの訪れを烈《はげ》しく祈った。…………
胃にはもう何も残っていそうもないのに、妻はまだ苦しみつづけた。これはまるで訳のわからぬことだった。
「よく腹を立てるから腹にしこりが出来たのかな」彼はふと冗談を云っていた。
「この頃ちょっとも腹は立てなかったのに」と妻は真面目《まじめ》そうに応《こた》えた。そのうちに、妻は口の渇《かわ》きを訴えて、氷を欲しがった。隣室で母親は彼に小声で云った。
「もう唾液《だえき》がなくなったのでしょう」
それから母親は近所で氷の塊《かたま》りを頒《わ》けてもらって来た。氷があったので彼は吻《ほっ》と救われたような気がした。氷は硝子《ガラス》の器から妻の唇を潤おした。うとうとと眼を閉じたまま妻の痛みはいくらか落着いてくるようだった。
夜はもう更《ふ》けていた。彼は別室に退いて横臥《おうが》していた。が、暫くすると母親に声をかけられた。
「お腹《なか》を撫《な》でてやって下さい。あなたに撫でてもらいたいと云っています」
彼は妻の体に指さきで触れながら、苦しみに揉《も》まれてゆくような気がした。妻の苦しみは少し鎮《しず》まっては、また新しく始って行った。彼は茫《ぼう》とした心のなかに、熱い熱い疼《うず》きがあった。これが最後なのだろうか。それなら……。だが、今となってはもう妻にむかって改めてこの世の別れの言葉は切りだせそうもなかった。言い残すかもしれない無数のおもいは彼のなかに脈打っていた。妻はまた氷を欲しがった。それからまた吐き気を催し、ぐったりとしていた。
「もう少しすれば夜が明けるよ」
かたわらに横臥して、そんなさりげないことを話しかけると、妻は静かに頷《うなず》く。そうしていると、まだ妻に救いが訪れてくるようで、もう長い長い間、二人はそんな救いを待ちつづけていたような気もした。そして、これは彼|等《ら》の穏やかな日常生活の一ときに還《かえ》ってゆくようでさえあった。だが、ふと吃驚《びっくり》したように妻は胸のあたりの苦しみを訴えだした。その声は今|迄《まで》の声とひどく異っていた。それは魔にうなされたように、哀切な声になってゆく。愕然《がくぜん》として、彼も今その声にうなされているようだった。病苦が今この家全体を襲いゆさぶっているのだ。
彼が玄関を出ると、外は仄暗《ほのぐら》い夜明だった。どこの家もまだ戸を鎖《とざ》していたが、町医のベルを押すと、灯がついて戸は開いた。医者は後からすぐ行くことを約束した。
家に戻って来ると、妻の苦悶《くもん》はまだ続いていた。「つらいわ、つらいわ」と、とぎれとぎれに声
前へ
次へ
全6ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング