とまった。それを皿に盛って妻の枕頭に置くと、
「ああ、おいしい」妻は寝たまま、まるで心の渇《かわ》きまで医《いや》されるように、それを素直にうけとる。佗しく暗い気分のなかに、ふと蜜柑の色だけが吻と明るく浮んでいるのだった。……だが、その翌日彼が街に出て処方箋どおり求めて来た散薬は、もう妻の口にまるで喜びを与えなかった。何かはっきりしないが、眼に見えて衰えてゆくものがあった。気疎《けうと》そうな顔つきで、妻はぼんやりと焦点のさだまらぬ眼つきをしている。あの弱々しい眼のなかから、パッと一つの明るいものが浮びあがったら……彼は電車の片隅《かたすみ》でぼんやりと思い耽《ふけ》っていた。
今にも降りだしそうな冷え冷えしたものは、そのまま持ちつづいて、街も人も影のように薄暗かった。家を出てから続いている時間が今でも彼には不安な容態そのもののようにおもえた。映画会社の廊下を廻り演出課のルームに入っても、彼は影のように壁際《かべぎわ》に佇《たたず》んでいた。
「奥さんの病気はどうかね」と友人が話しかけて来た。
「よくない」彼はぽつんと答えた。こんな会話をするようになったのかと、ふと彼には重苦しく愁わしいものがつけ加えられるようだった。
冷え冷えとしたものは絶えずみうちに顫えてくるようだったが、試写室に入ると、いつものように巨大な機械力の流れが眼の前にあった。フィルムの放つ銀色の影も速度も音響もその構成する意味も、彼にはただ、やがて破滅の世界にむかって突入している奔流のように無気味におもえた。だが、無数の無表情のなかに、ふと心|惹《ひ》かれる悲しげな顔が見えてくることもある。ふと、その時、試写室の扉が開いて廊下の方から誰か呼出しの声がした。瞬間、彼はハッと自分の名が呼ばれたのではないかと惑った。……試写が終ってドカドカと明るい廊下の方へ人々が散じると、重苦しい魔ものの影の姿も移動する。狭い演出課のルームの椅子は一杯になり議論が始るのだった。だが、こうして、こんな場所に彼が今生きていることは、まるで何かの間違いのようにおもえてくる。今は魘《うな》されるような感覚ばかりが彼をとりまいているのだった。刻々にふるえる佗しいものが会社を出て鋪道《ほどう》を歩きながらも、彼に附きまとっていた。混みあう電車に揺られながら、彼はじっと何か悲痛なものに堪えている心境だった。だが、電車が広漠とした野を走りつづけ、見馴れた芋畑や崖《がけ》の叢《くさむら》が窓の外に見えて来たとき、外はしきりに雨が降りつづいていた。まるで、それは堪えかねて、ついに泣き崩《くず》れてしまったものの姿だ。こんなにも悲しい、こんなにも悲しいのか、……何が? 冷え冷えとした真暗な底に突落されてゆく感覚が彼の身うちに喰込《くいこ》んで来る。こんなにも悲しい、こんなにも悲しいのか、何が……? この訳のわからぬ感傷は今かぎりのものなのだろうか、やがて別の日が訪れてくれば消え失せてしまうのだろうか……ぼんやりと彼がおもい惑っていると、ぼっと電灯がついて車内は明るくなった。と、灯のついている彼の家の姿が、びしょ濡《ぬ》れの闇《やみ》のなかにもすぐ描かれた。
「お母さん、お母さん」
今、目ざめたばかりの彼はふと隣室で妻のかすかな声をきくと、寝床を出て台所の方にいる母親に声をかけた。それから、その弱々しいなかにも何か訴えを含んでいる声にひきつけられて、彼は妻の枕頭《ちんとう》にそっと近寄ってみた。妻の顔は昨夜からひきつづいている不機嫌《ふきげん》な苛々《いらいら》したものを湛《たた》えていた。だが、それは故意にそうしている顔ではなく、何かもう外界の空気に堪《た》えられなくなり、外界から拒否されたものの姿らしかった。瞼《まぶた》はだるそうに窄《すぼ》められ、そこから細く覗《のぞ》いている眸《ひとみ》はぼんやりと力なく何ものかを怨《えん》じていた。
……一週間前に、妻は小さな手帳に鉛筆で遺書を認《したた》めていた。枕頭に置かれていたので彼も読んでそれは知っていた。けれども、それを認めた妻も読んだ彼も、ほんとうに別離が切迫したものとはまだ信じきれないようだったのだ。
昨日の夕方、電車を降りて彼が暗い雨のなかを急込《せきこ》んで戻ってくると、家には灯のついた病室が待っていた。彼は妻の枕頭に屈《かが》んで「どうだったか」と訊《たず》ねた。
「今日は気分も軽かったのに、お母さんがひとりでおろおろされるので何か苛々しました」
枕頭に食べさしの林檎《りんご》が置いてあった。林檎が届いたら、と長い間持ち望んでいたのだが、注文の荷が届いたときには、これはもう彼女の口にあわなくなっていたのだ。ふと、妻は指の爪《つめ》で唇《くちびる》の薄皮をむしりとろうとした。
「どうしてそんなことをするのだ」
「…………」妻は無言
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