は波打つようだった。彼はその脇《わき》に横臥するようにして声をかけた。
「外はまだ薄暗かったよ。医者はすぐ来ると云っていた」
 妻は苦しみながらも頷いていた。妻が幼かったとき一度危篤に陥って、幻にみたという美しい花々のことがふと彼の念頭に浮んだ。
「しっかりしてくれ。すぐ医者はやってくるよ。ね、今度もう一度君の郷里へ行ってみよう」
 妻はぼんやり頷いた。玄関の戸が開いて医者がやって来た。医者の来たことを知ると、妻は更に辛《つ》らそうに喘《あえ》いで訴えた。
「先生、助けて、助けて下さい」
 医者は静かに聴診器を置くと、注射の用意をした。その注射が済むと、医者は彼を玄関の外に誘った。
「危篤です。知らすところへ電報を打ったらどうです」
 医者はとっとと立去った。彼は妻の枕頭に引返した。妻はまだ苦悶をつづけていた。
「どうだ、少しは楽になったか」
 妻は眼を閉じて嬰児《えいじ》のように頭を左右に振っていた。暫くすると、さきほどから続いていた声の調子がふと変って来た。
「あ、迅《はや》い、迅い、星……」
 少女のような声はただそれきりで杜切《とぎ》れた。それから昏睡《こんすい》状態とうめき声がつづいた。もう何を云いかけても妻は応えないのであった。
 彼は急いで街へ出て、郷里の方へ電報を打っておいた。急いで家に戻って来ると、玄関のところで、まだ妻のうめき声がつづいているのを耳にした。その瞬間、今はそのうめき声がつづいていることだけが彼の唯一のたよりのようにおもえた。
 彼は妻の枕頭に坐ったまま、いつまでも凝としていた。時間は過ぎて行き、庭の方に朝の陽《ひ》が射《さ》して来た。あたりの家々からも物音や人声がして、その日は外界はいつもと変りない姿であった。昏睡のままうめき声をつづけている妻に「死」が通過しているのだろうか。いつかは、妻とそのことについてお互に話しあえそうな気もした。だが、妻のうめき声はだんだん衰えて行った。やがて、その声は一うねり高まったかと思うと、息は杜絶えていた。
[#地から2字上げ](昭和二十五年四月号『群像』)



底本:「夏の花・心願の国」新潮文庫、新潮社
   1973(昭和48)年7月30日初版発行
入力:tatsuki
校正:林 幸雄
2002年1月1日公開
2005年11月20日修正
青空文庫作成ファイル:
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