を閉じると、彼は窓際《まどぎわ》の椅子を離れて、受附のところへ歩いて行った。と、さきほどまで彼の頬に吹寄せていた生温かいが不思議に冷気を含んだ風の感触は消えていた。だが、何かわからないが彼のなかを貫いて行ったものは消えようとしなかった。閲覧室を出て、階段を下りて行きながらも、さきほどの風の感覚が彼のなかに残っていた。
それは沖から吹きよせてくる季節の信号なのだろうか。夏から秋へ移るひそかな兆《きざし》なら彼は毎年見て知っていた。だが、さきほどの風は、まるでこの地球より、もっと遙《はる》かなところから流れて来て、遙かなところへ流れてゆくもののようだった。その中に身を置いておれば、何の不安も苦悩もなく、静かに宇宙のなかに溶け去ることもできそうだ。だが、それにしても何かかなしく心に泌みるものがあるのはどうしたわけなのだろう。
(人間の心に爽やかなものが立ちかえってくるのだろうか。)もしかすると何か全く新しいものの訪れの前ぶれなのだろうか。……彼はまだ、さきほどの風の感触に思い惑いながら往来に出て行った。人通りの少ない、こぢんまりした路は静かな光線のなかにあった。煉瓦塀《れんがべい》や小さな溝川《みぞがわ》や楓《かえで》の樹などが落着いた陰翳《いんえい》をもって、それは彼の記憶に残っている昔の郷里の街と似かよってきた。
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ほとんど総《すべ》ての物から 感受への合図が来る。
向きを変える毎《ごと》に 追憶を吹き起す風が来る。
何気なく見逃《みの》がして過ぎた一日が
やがて自分へのはっきりとした贈りものに成って蘇る。
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いつも頭に浮ぶリルケの詩の一節を繰返していた。
その春、その街の大学病院を退院して以来、自宅で養生をつづけるようになってからも、妻の容態はおもわしくなかった。夜ひどい咳《せき》の発作におそわれたり、衰弱は目に見えて著しかった。だが、彼の目には妻の「死」がどうしても、はっきりと目に見えて迫っては来なかった。その部屋一杯にこもっている病人の雰囲気《ふんいき》も、どうかすると彼には馴《な》れて安らかな空気のようにおもえた。と、夏が急に衰えて、秋の気配のただよう日がやって来た。その日、彼女の母親は東京へ用足しに出掛けて行ったので、家の中は久しぶりに彼と妻の二人きりになっていた。
寝たままで動けない姿勢で、妻は彼
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