美しき死の岸に
原民喜
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)頬《ほお》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)四五|米《メートル》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから2字下げ]
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何かうっとりさせるような生温かい底に不思議に冷気を含んだ空気が、彼の頬《ほお》に触れては動いてゆくようだった。図書館の窓からこちらへ流れてくる気流なのだが、凝《じっ》と頬をその風にあてていると、魂は魅せられたように彼は何を考えるともなく思い耽《ふけ》っているのだった。一秒、一秒の静かな光線の足どりがここに立ちどまって、一秒、一秒のひそやかな空気がむこうから流れてくる。世界は澄みきっているのではあるまいか。それにしても、この澄みきった時刻がこんなにかなしく心に泌《し》みるのはどうしたわけなのだろう……。
ふと、視線を窓の外の家屋の屋根にとめると、彼にはこの街から少し離れたところにある自分の家の姿がすぐ眼に浮んできた。その家のなかでは容態のおもわしくない妻が今も寝床にいる。妻も今の今、何かうっとりと魅せられた世界のなかに呼吸《いき》づいているのだろうか。容態のおもわしくない妻は、もう長い間の病床生活の慣《なら》わしから、澄みきった世界のなかに呼吸《いき》づくことも身につけているようだった。だが、荒々しいものや、暴《あば》れ狂うものは、日毎《ひごと》その家の塀《へい》の外まで押し寄せていた。塀の内の小さな庭には、小さな防空壕《ぼうくうごう》のまわりに繁《しげ》るままに繁った雑草や、朱《あか》く色づいた酸漿《ほおずき》や、萩《はぎ》の枝についた小粒の花が、――それはその年も季節があって夏の終ろうとすることを示していたが、――ひっそりと内側の世界のように静まっていた。それから、障子の内側には妻の病床をとりかこんで、見なれた調度や、小さな装飾品が、病人の神経を鎮《しず》めるような表情をもって静かに呼吸《いき》づいているのだ。――そうして、妻が病床にいるということだけが、現在彼の生きている世界のなかに、とにかく拠《よ》りどころを与えているようだった。
彼の呼吸づいている外側の世界は、ぼんやりと魔ものの影に覆《おお》われてもの悲しく廻転しているのだった。週に一度、電車に乗って彼は東京まで出掛けて行くのだが、人々の
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