の方を見上げた。と、彼もまた寝たままで動けない姿勢で、何ものかを見上げているような心持がするのだったが……。
「死んで行ってしまった方がいいのでしょう。こんなに長わずらいをしているよりか」
それは弱々しい冗談の調子を含みながら、彼の返事を待ちうけている真面目《まじめ》な顔つきであった。だが、彼には死んでゆく妻というものが、まだ容易に考えられなかった。四年前の発病以来、寝たり起きたりの療養をつづけているその姿は、彼にとってはもう不変のもののようにさえ思えていたのだ。
「もとどおりの健康には戻れないかもしれないが、だが寝たり起きたり位の状態で、とにかく生きつづけていてもらいたいね」
それは彼にとって淡い慰めの言葉ではなかった。と妻の眼には吻と安心らしい翳りが拡《ひろが》った。
「お母さんもそれと同じことを云っていました」
今、家のうちはひっそりとして、庭さきには秋めいた陽光がチラついていた。そういう穏かな時刻なら、彼は昔から何度も巡《めぐ》りあっていた。だから、この屋根の下の暮しが、いつかぷつりと截《た》ち切られる時のことは、それに脅かされながらも、どう想像していいのかわからなかった。
どうかすると妻の衰えた顔には微《かす》かながら活々《いきいき》とした閃《ひらめ》きが現れ、弱々しい声のなかに一つの弾《はず》みが含まれている。すると、彼は昔のあふれるばかりのものが蘇ってくるのを夢みるのだった。まだ元気だった頃、一緒に旅をしたことがある、あの旅に出かける前の快活な身のこなしが、どこかに潜んでいるようにおもえた。綺麗好《きれいず》きの妻のまわりには、自然にこまごましたものが居心地《いごこち》よく整えられていたし、夜具もシイツも清潔な色を湛《たた》えていた。それらには長い病苦に耐えた時間の祈りがこもっているようだった。壁に掛けた小さな額縁には、蔦《つた》の絡《から》んだバルコニーの上にくっきりと碧《あお》い空が覗《のぞ》いていた。それはいつか旅で見上げた碧空のように美しかった。
今にも降りだしそうな冷え冷えしたものが朝から空気のなかに顫《ふる》えていた。電車の窓から見える泥海や野づらの調子が、ふと彼に昨年の秋を回想させるのだった。……一年前の秋、彼と妻の生活は二つに切離されていた。糖尿病を併発した妻は大学病院に入院したが、これからはじまる新しい療養生活に悲壮な決意
前へ
次へ
全12ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング