けがひとり不思議に助かっている。おおらかな感銘の漾《ただよ》っているのも束《つか》の間《ま》で、やがて四辺は修羅場《しゅらじょう》と化す。烈しい火焔《かえん》の下をくぐり抜け、叫び、彼は向側へつき抜けて行く。向側へ。この不思議な装置の重圧する機械はゆるゆると地下を匐い、それ故《ゆえ》、全身はさかしまに吊《つる》されながら暗黒の中を匐って行く。苦しい喘《あえ》ぎと身悶《みもだ》えの末、更に恐しい音響が破裂する。ここですべては消滅し、やがて再び気がつくと、彼はある老練な歯科医の椅子の上に辿《たど》り着いているのであった。
――その日、彼はそれらの夢を小さな手帳に書きとめておいた。その手帳は、日記の役割をしていたが、気象に関する記録と夢の採集のほかは、故意に世相への感想を避けていた。だが夢ははっきりとある感想を述べているのでもあった。誰しもが避け難い破滅を予感し、ひそかに救済を祈っているのではあるまいか。その夢の最後に現れて来る歯科医は妻も知っている人物であった。少しでも患者が痛そうな表情をすると手を休め、その癖、少しずつ確実に手術を為《な》し遂げてゆく巧みな医者であった。ふと、彼は妻にみた夢の内容を語りたい誘惑を覚えた。しかし、それを話せば、頭上に迫っている更に酷《きび》しいものの印象を強めるだけのことであった。
『そのとき天の方では、日の沈む側に雲が叢《むらが》っていた。その一つは凱旋門《がいせんもん》に似ていて、次のはライオンに、三番目のは鋏《はさみ》に似ている。……雲の後から幅のひろい緑色の光が射《さ》して、空の央《なか》ばまで達している。暫くするとこの光は紫色の光が来て並ぶ。その隣には金色のが、それから薔薇色《ばらいろ》のが。が空はやがて柔かな紫丁香《ライラック》色になる。この魅するばかりの華麗な空を見て、はじめ大洋は顰《しか》め面《つら》をする。が、間もなく海面も、優しい、悦ばしい、情熱的な――とても人間の言葉では名指《なざ》すことの出来ぬ色合になる』
彼はとても人間の言葉では名指すことの出来ぬ情熱的な色合をしきりに想い浮べていた。すると目の前に、鱶《ふか》の餌食《えじき》と化するはかない人間の姿と、チェーホフの心の色合が海底のように見えて来るのだった。そして、三年前彼がはじめて「グーセフ」を読んだ時から残されている骨を刺すような冷やかなものと疼《うず》くような熱さがまた身裡《みうち》に甦《よみがえ》って来るのでもあった。奇妙なことに、それを読んだ三年前の季節の部屋の容子とその頃の心のありさままでこまごまと彼には回想されるのであったが、それは殆ど現在の彼と異っていないようでもあった。その頃、彼は一度東京へ出て知人を訪《たず》ねようと思っていた。がたったそれだけのことが彼にとってはなかなか決行できなかった。電車で行けば一時間あまりのところにある地点が彼には無限のかなたにあるもののように想像されたし、もしかするとその都会は一夜のうちに消滅しているかもしれないと、妄想《もうそう》は更に飛躍して行った。もの音の杜絶《とぜつ》した夜半、泥海と茫漠《ぼうばく》たる野づらの涯《はて》しなくつづくそこの土地の妖《あや》しい空気をすぐ外に感じながら、ひとりでそんなことを考えていると、都会の兇悪《きょうあく》な相貌がぐるぐると胸裡を駆けめぐりそれは一瞬たりとも彼のようなものの拠《よ》りつけそうにない場所に変っていた。そこには今では、彼にとって全く無縁のものや、激しく彼を拒否しようとするもののみが満ち溢《あふ》れていた。それでなくても、顔の固疾や、脆弱《ぜいじゃく》な体質が出足を鈍らすのであったが、着つけない服をつけ、久し振りに靴を穿《は》いて出掛ける時には、まるで大旅行に出て行くように悲壮な気持がしたものであった。……鱶の泳ぎ廻る海底の姿と黙示録の幻影がいつまでも重たく彼の心にかさなり合っていた。
生涯のある時期に於《お》いて、教師をするということは、僕にとって予定されていたことかも知れません、とにかく、やってみるつもりです。――彼はある朝、ひっそりとした時刻に、友人に対《むか》ってこんな手紙を書いた。そしてペンを擱《お》くと、障子の硝子《ガラス》の向うに見える空が、いまどこまでも白く寒々と無限に展《ひろ》がってゆくように想えた。あの寒々とした中に、以前からこの予言は誌《しる》されていたのであろうか――近く始ろうとする教師の姿をぼんやり考えてみた。殆ど何の自信も期待も持てなかったが、それでも、そこへ強《し》いてゆくものが、たしかにあった。彼の安静な、そしてまた業苦多い、孤独の三昧境《さんまいきょう》は既にこの二三年前から内からも外からも少しずつ破壊されていた。ある時は猛然と立って、敵を防ごうとしたが、空白の中に行詰ってゆく心理は、死
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