守しようとするものを自ら弱めて行っているのでもあった。(だが、彼の力の絶したところに、やはり死守すべきものがあることだけは疑えなかった)生計の不安や激変の世の姿が今|怒濤《どとう》となって身辺にあれ狂っていた。絶えず忌避していた世間へ、一歩踏込んで行かねばならなかった。「中学生を相手にするのは何だか怕《おそろ》しいようです」そう云う彼を先輩は憐《あわれ》むように眺め、「そんなことはありません、余程あなたは世間を怖《おそ》れているのですね、なあに、やってみるまでのことです」と励ましてくれるのであった。その人の家を辞して帰ってくる途中、家の近くの小駅のほとりで、中年の男が着流しで寒々と歩いている佗《わび》しい後姿を認めた。近所の男であった。ひどい酒癖がはじまると、隣近所に配給酒を乞《こ》うて歩くが、今も巷《ちまた》へ出て乏しい酒を漁《あさ》って帰るところらしかった。寒々とした夕空がかすかに明るかった。
 ……それから間もなく、あの恐しい朝(十二月八日)がやって来たのだった。気を滅入《めい》らす氷雨《ひさめ》が朝から音もなく降りつづいていて、開け放たれた窓の外まで、まるで夕暮のように惨澹《さんたん》としていたが、ふと近所のラジオのただならぬ調子が彼の耳朶《じだ》にピンと来た。スイッチを入れてみると、忽ち狂おしげな軍歌や興奮の声が轟々と室内を掻《か》き乱した。彼は惘然《もうぜん》として、息を潜め、それから氷のようなものが背筋《せすじ》を貫いて走るのを感じた。苛酷《かこく》な冬が来る、恐しい日は始ったのだ。――彼は身に降りかかるものに対して身構えるように、じっと頑《かたくな》な気持で畳の上に蹲っていた。日の暮れる前から何処の家でも申合わせたように雨戸を立ててしまった。黒いカーテンを張りめぐらした部屋ではくつくつと鳥鍋《とりなべ》が煮えていた。「こんな大戦争が始ったというのに、鳥鍋がいただけるとは何と幸《しあわせ》なことでしょう」と若い女中のたつは全く浮々していた。が、妻は震駭《しんがい》のあとの発熱を怖れるように愁《うれ》い沈んでいた。

 押入の奥から古ぴた英語の参考書を取出して、彼はぼんやり眺《なが》めていた。久しく忘れていた英語を憶《おも》い出そうとするように、あちこちの頁《ページ》をめくっていると、ふと昔の教室の姿が浮ぶ。円味《まるみ》を帯びた柔かな声で流暢《りゅうちょう》にリーダーを読み了《おわ》った先生は、黒い閻魔帳《えんまちょう》をひらいて、鉛筆でそっと名列の上をさぐっている。中学生の彼は息をのみ、自分があてられそうなのを心の中で一生懸命防ごうとしている。先生の鉛筆は宙を迷いなかなか指名は決まらない。やがて、先生は彼から二三番前の者にあてると、瞬間|吻《ほっ》としたような顔つきになる。先生は彼の気持は知っているのだ。孤独で内気な、その中学生に読みをあてれば、どんなに彼が間誤《まご》つき、真※[#「赤+暇のつくり」、43−15]《まっか》になるかをちゃんと呑込《のみこ》んでいたのだ。だから、どうしても指名しなければならない場合には、まるで長い躊躇《ちゅうちょ》の後の止《や》むを得ない結果のように、態《わざ》とぶっきら棒な調子で彼の名をあてる。あんな微妙な心づかいをする先生は、やはり孤独で内気な人間なのかもしれない。どうかすると、生徒たちの視線にも堪えられないような、壊《こわ》れ易《やす》いものをそっと内に抱《いだ》いているようなところがあり、それでいて、粘り強い意志を研《と》ぎ澄ましている人のようだった。……いつも周囲には獣のような生徒がいて、無意味なことを騒ぎ廻っていた。それでなくても、彼にはこの世の中に生れて来たことが不思議に堪えがたいもののようになっていたが、学校の厭《いや》な空気はともすれば、居たたまらないものになっていた。それだから、彼はよく学校を休んだ。それは大概冬の日のことであったが、家でひとり静かに休息をとり、久し振りに学校へ出て行くと、彼の魂も、肉体もそれから周囲の様子まで少し新鮮になっていた。黒い服を着て大きな眼鏡をした先生は、彼の欠席していたことについては何も訊《たず》ねようとしなかった。
 ――彼は久し振りに学校へ出掛けて行く中学生のようであったが、その昔の中学生がまだ根強く心の隅《すみ》に蔓《はびこ》っているのであった。就職が決まりそうになると、女中のたつは、この生活の変化にひどく弾《はず》みをもち、靴下や手袋を新しく買いととのえて来てくれた。弁当箱も、それはこの頃既に巷から影を潜めていたが、どうやら手に入れることが出来た。

 とらえどころのない空がどこまでも続いており、単調な坂路がはるかに展がっている。その風景は寒くて凍《い》てついていたが、どこかにまだギラギラと燃える海や青野の悶《もだ》えを潜
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