た。あのような奇怪な絶望のはての娯《たの》しい旅へ出られたら、――それはこの頃二人に共通する夢でもあった。じりじりと押迫って来る何か不吉なものが、今にもこの小さな生活を覆《くつがえ》しそうな秋であった。台所の硝子戸にドタンと風のあたる音がして、遠くの方にヒューッと唸《うな》る凩《こがらし》の音がする。電車が軋《きし》りながらすぐ近くの小駅に近づいて来る。不思議に外部のもの音が心に喰込《くいこ》んで来る。すると急に電灯のあかりが薄暗く感じられ、見慣れた部屋の壁の色がおそろしく冴《さ》えているのだ。ここには妻の一日の憂鬱《ゆううつ》がすっかり立籠《たちこも》っている。妻もまたこの二三年を病の床で暮し、来る日来る日をさびしく見送っているのだった。日によって、頬《ほお》が火照ったり、そうして、その後ではきっと熱が高かったが、些細《ささい》なことがらがひどく気に懸《かか》ることがある。かと思うと、ふと爽《さわ》やかな恢復期《かいふくき》の兆《きざし》が見えたりして、病気は絶えず一進一退していた。寝たままで、女中のたつを口で使っていたが、おつかいから帰って来るたつは、変動してゆく外の空気をいつも妻に語りつたえた。そうして、妻の焦躁《しょうそう》は無言の時、一際《ひときわ》はっきりと彼の方へ反映して来るようであった。その高い額の押黙って電灯に晒《さら》されている姿が、今も何となく彼には堪えがたくなる。彼はふと思いついたように座を立って、毎日の習慣である冷水摩擦の用意にとりかかる。タオルを堅く洗面器の上で絞ると、シイツの上に両足を投出している妻の方へ持って行き、足さきの方から皮膚をこすって行くのであったが、膝《ひざ》から脇腹《わきばら》の方へ進むに随《したが》って、妻の下半身の表情がおもむろに現れて来る。彼はそれを愛撫《あいぶ》するというよりも、何か器具の光沢を磨《みが》いているような錯覚に陥りながら、やがて摩擦は上半身へ移って行く。すると、ここにはまるで少女のように細っそりした胸があり、背の方の筋肉は無表情の儘であるが、やがて首筋のあたりを撫《な》でて行くと、妻は頤《あご》を反《そ》らして、快げに眼を細めている。こうして、摩擦は完了する。この肉体的接触の後の爽やかさが、どうやらお互の気分をかすかに落着かすのではあったが……。

 青黒い水の上を滑《すべ》って行く汽船が、悲しい情緒
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