た。だが、このもの音を区切りにやがてあたりの状態は少しずつ変って行く。バタンと乱暴に戸の開く音がして、けたたましい声で前の家の主婦は喋《しゃべ》りだす。すると、もう何処《どこ》でも夕餉《ゆうげ》の支度《したく》にとりかかる時刻らしかった。雨は歇《や》んだようだが、廊下の方に暮色がしのびよって来て、もう展《ひろ》げた紙の上にあった微妙な美しい青も消え失せている。手を伸べて、スタンドのスイッチを捻《ひね》ればよさそうであったが、それさえ彼には躊躇された。薄暗くなる部屋に蹲《うずくま》ったまま、彼はじりじりともの狂おしい想いを堪《た》えた。ものを書こうとして、書こうとしては躊躇し、この二三年をいつのまにか空費してしまった彼は、今もその躊躇の跡をいぶかりながら吟味しているのであったが、――時にこの悶えは娯《たの》しくもあったが、更により悲痛でもあったのだ。「黄昏《たそがれ》は狂人たちを煽情《せんじょう》する」とボオドレエルの散文詩にある老人のように、失意のうちに年老いてじりじりと夕暮を迎えねばならぬとしたら、――彼はそれがもう他人事《ひとごと》ではないように思えた。「マルテの手記」にある痙攣《けいれん》する老人が彼の方に近づいて来そうであった。
『ベルリン――ロオマ行の急行列車が、ある中位な駅の構内に進み入ったのは、曇った薄暗い肌《はだ》寒い時刻だった。幅の広い、粗天鵞絨《あらびろうど》の安楽椅子にレエスの覆《おお》いを掛けた一等の車室で、或る独《ひと》り旅《たび》の客が身を起した――アルブレヒト・ファンクワアレンである。彼は眼を醒《さ》ましたのである』
夕食後、彼は妻の枕許《まくらもと》でトオマス・マンの「衣裳戸棚《いしょうとだな》」の冒頭を暗誦《あんしょう》してきかせた。女中のたつは通いで夜は帰って行ったから、その部屋はいま二人きりの領分であった。病気の妻はギラギラと眼を輝かし、彼の言葉に耳傾けていたが「絶唱だね」と彼がつけ加えると、それが他人の作品だと分り多少あきたらない面持にかえったが、猶《なお》も彼の意中をさぐろうとするように、凝《じっ》と空間を見詰めている。長い間、彼は何も書こうとしないが、まだ書こうとする熱意を喪《うしな》ってはいないのだろうか――そう妻は無言のうちに訊《たず》ねているようであった。だが、それはそれとして、妻も「衣裳戸棚」の旅の話を知ってい
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