冬日記
原民喜

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)西洋紙を展《ひろ》げて、

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)それは毎日|殆《ほとん》ど

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「赤+暇のつくり」、43−15]
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 真白い西洋紙を展《ひろ》げて、その上に落ちてくる午後の光線をぼんやり眺《なが》めていると、眼はその紙のなかに吸込まれて行くようで、心はかすかな光線のうつろいに悶《もだ》えているのであった。紙を展《の》べた机は塵《ちり》一つない、清らかな、冷たい触感を湛《たた》えた儘《まま》、彼の前にあった。障子の硝子越《ガラスご》しに、黐《もち》の樹が見え、その樹の上の空に青白い雲がただよっているらしいことが光線の具合で感じられる。冷え冷えとして、今にも時雨《しぐれ》が降りだしそうな時刻であった。廊下を隔てた隣室の方では、さきほどまで妻と女中の話声がしていたが、今はひっそりとしている。端近い近壁の家々も不思議に静かである。何か書きはじめるなら今だ。今なら深い文章の脈が浮上って来るであろう。だが、何故《なぜ》かすぐにペンを紙の上に走らすことは躊躇《ちゅうちょ》された。西洋紙は視《み》つめているほどに青味を帯びて来て、そのなかには数々の幻影が潜んでいそうだ。弱々しく神経を消耗させて滅びて行く男の話、ものに脅えものに憑《つ》かれて死んでゆく友の話、いずれも失敗者の姿ばかりが彼の心には浮ぶのであった。……時雨に濡《ぬ》れて枯野を行く昔の漂泊詩人の面影がふと浮んで来る、気がつくと恰度《ちょうど》ハラハラと降りだしたのである。そして今、露次の方に跫音《あしおと》がして、それが玄関の方へ近づいて来ると、彼はハッとして、きき慣れた跫音がその次にともなう動作をすぐ予想した。やがて玄関の戸がひらき、牛乳壜《ぎゅうにゅうびん》を置く音がする。かすかにかち合う壜の音と「こんちは」と呟《つぶや》く低い声がするのである。彼はずしんと、真空に投出されたような気持になる。微《かす》かにかち合う壜の音がまだ心の中で鳴りひびき、遠ざかって行く跫音が絶望的に耳に残る。それは毎日|殆《ほとん》ど同じ時刻に同じ動作で現れ、それを同じ状態の下にきく彼であっ
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