めているようで、ふと眩《まぶ》しく強烈なものが、すぐ足もとにも感じられた。空漠《くうばく》としたなかにあって、荒れ狂うものに攫《さら》われまいとしているし、径《みち》や枯木も鋭い抵抗の表情をもっていた。だが、すべてはさり気なく、冬の朝日に洗われて静まっている。
 坂の中ほどまでやって来ると、視野が改まり、向うに中学の色|褪《あ》せた校舎が見えたが、彼の脚《あし》はひだるく熱っぽかった。家を出て電車で二十分、ここまで来ただけで、もうそんなに疲労するのだったが(荒天悪路だ、この坂を往かねばならぬのだ)と、彼は使い慣れぬ筋肉を酷使するように、速い足どりで歩いた。その癖、自分の魂は壊れもののようにおずおずと運んでいるのでもあった。彼には今の家に置いて来たもう一つの姿が頻《しき》りに気に懸《かか》った。それは今もじっと書斎の机に凭《よ》り、――彼方《かなた》から彼の心の隅を射抜こうとしている。戸惑った表情の儘《まま》、前屈《まえかが》みの姿勢でせかせかと歩いている姿は、かえって何か影のように稀薄《きはく》なものに想われて来る。彼は背後に、附纏《つきまと》う書斎からの視線を避《のが》れるように急いで中学の門へ這入って行く。そうして、その小さな門を潜《くぐ》った瞬間から、ともかくあの書斎からつき纏って来たものと別れることが出来た。だが、そのかわり今度は更に錯綜《さくそう》した視線の下に彼は剥出《むきだ》しで晒《さら》されるのであった。
 ――その夜、睡《ねむ》ろうとすると、鼻腔《びこう》にものの臭《にお》いがまだしつこく残っているのを彼は感じたが、たしかそれは今日の昼間、小使室で弁当を食べた時|嗅《か》いだものに他《ほか》ならなかった。その日、はじめて彼も教員室へ入ったが、そこにはいろんな年配のさまざまの容貌《ようぼう》をした教師たちが絶えず出入していた。弁当の時間になると、日南の狭い小使室に皆はぞろぞろと集っていた。彼はその部屋の片隅で、佗しいものの臭い――それは毛糸か何かが煉炭《れんたん》で焦げるような臭いであった――を感じた。家へ戻ると早速《さっそく》、彼はその臭いの佗しさを病妻に語った。妻は頬笑《ほほえ》みながら「そんなに侘しいのなら、勤めなきゃいいでしょう」と労《いた》わるように云った。長い間、人なかに出たことのない彼にとっては、人間の臭いの生々しさが、まず神経を掻き乱
前へ 次へ
全11ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング