すのであった。……ふと、昼間の光景が睡《ね》つけない闇《やみ》の中に描かれた。階段を昇って、ザラザラの廊下を行くと、黄色く汚れた窓の中に少年たちのいきれが立こもっていた。そっと、教室の後の方の入口から這入って行ったのに、忽《たちま》ち四十あまりの顔と眼鼻が一斉に振返って彼の方へ注がれた。その視線のなかには、火のように嶮《けわ》しいものも混っていた。彼はかすかに青ざめてゆく自分を意識した。睡つけない闇のなかには、いつまでも何かはっきりしないものの像が揺れかえっていた。彼|等《ら》はどうした貌《かお》なのだろう、なにを感じなにに為《な》ろうとする姿なのだろう。
それはひどい雪の降っている朝のことだった。彼は電車の中で昂然《こうぜん》とした姿勢の軍人の顔をつくづく眺めていた。人々は強いて昂然としているらしかったが、雪に鎖《とざ》された窓の外の景色は、混濁した海を控えていて、ひそかに暗い愁《うれい》を湛《たた》えているのだった。道すがら雪は容赦なく靴のやぶれから彼の足にしみていたが、泥濘《でいねい》の中をリヤカーで病人を運んで来る百姓の姿も――更に悲惨な日の前触のように、彼の心を衝《つ》くのだった。坂路のあちこちには、バタバタと汚れた紙片が貼《は》ってあって、それには烈しい、そして空虚な文字が誌されていた。……寒さと慣れない仕事にうち克《か》つためには、彼は絶えず背中をピンと張りつめていなければならなかった。教員室には、普通の家庭で使用する煉炭火鉢《れんたんひばち》が一つ置いてあった。その貧弱な火をとり囲んで教師達は頻《しき》りにガヤガヤと談じ合った。そういう佗しいなかに交っていると、彼はふと、家に置忘れて来た自分の姿を振返ることがあった。長い間かかって、人生の隠微なるものの姿を把《とら》えようとしていたのに、それらはもうあのままに放置されてあった。学校から帰って来る彼の姿には外の新鮮な空気が附着しているのであろうか、妻は珍しげに彼を眺め、病んでいる彼女の顔にも前には見られなかった明るみが添った。行列に加わってものを買って帰ると、妻の喜びは一層大きかった。
ある朝、一羽の大きな鳥が運動場の枯木に来てとまった。あたりは今、妙にひっそりしていたが、枯木にいる鳥はゆっくりと孤独を娯《たの》しんでいるように枝から枝へと移り歩いている。その落着はらった動作は見ているうちに羨《
前へ
次へ
全11ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング