ょう》にリーダーを読み了《おわ》った先生は、黒い閻魔帳《えんまちょう》をひらいて、鉛筆でそっと名列の上をさぐっている。中学生の彼は息をのみ、自分があてられそうなのを心の中で一生懸命防ごうとしている。先生の鉛筆は宙を迷いなかなか指名は決まらない。やがて、先生は彼から二三番前の者にあてると、瞬間|吻《ほっ》としたような顔つきになる。先生は彼の気持は知っているのだ。孤独で内気な、その中学生に読みをあてれば、どんなに彼が間誤《まご》つき、真※[#「赤+暇のつくり」、43−15]《まっか》になるかをちゃんと呑込《のみこ》んでいたのだ。だから、どうしても指名しなければならない場合には、まるで長い躊躇《ちゅうちょ》の後の止《や》むを得ない結果のように、態《わざ》とぶっきら棒な調子で彼の名をあてる。あんな微妙な心づかいをする先生は、やはり孤独で内気な人間なのかもしれない。どうかすると、生徒たちの視線にも堪えられないような、壊《こわ》れ易《やす》いものをそっと内に抱《いだ》いているようなところがあり、それでいて、粘り強い意志を研《と》ぎ澄ましている人のようだった。……いつも周囲には獣のような生徒がいて、無意味なことを騒ぎ廻っていた。それでなくても、彼にはこの世の中に生れて来たことが不思議に堪えがたいもののようになっていたが、学校の厭《いや》な空気はともすれば、居たたまらないものになっていた。それだから、彼はよく学校を休んだ。それは大概冬の日のことであったが、家でひとり静かに休息をとり、久し振りに学校へ出て行くと、彼の魂も、肉体もそれから周囲の様子まで少し新鮮になっていた。黒い服を着て大きな眼鏡をした先生は、彼の欠席していたことについては何も訊《たず》ねようとしなかった。
――彼は久し振りに学校へ出掛けて行く中学生のようであったが、その昔の中学生がまだ根強く心の隅《すみ》に蔓《はびこ》っているのであった。就職が決まりそうになると、女中のたつは、この生活の変化にひどく弾《はず》みをもち、靴下や手袋を新しく買いととのえて来てくれた。弁当箱も、それはこの頃既に巷から影を潜めていたが、どうやら手に入れることが出来た。
とらえどころのない空がどこまでも続いており、単調な坂路がはるかに展がっている。その風景は寒くて凍《い》てついていたが、どこかにまだギラギラと燃える海や青野の悶《もだ》えを潜
前へ
次へ
全11ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング