単な経緯をSに話した。
「へえ、それは珍しい。山宮にはK大の方の友人はなかつたやうだが、それでは明日はあなたも一つ都合ついたら告別式に出てやつてくれませんか」
 山宮は学校を出て女学校へ勤務してゐるうち、Sたちのグループに加はり、太平洋戦争前まで尖鋭な文学論の筆をとつてゐた。学校を出ると私は東京を離れ殆ど孤立して暮してゐたので、こんなことを私がはつきり知るのも今がはじめてだつた。私は明日気がむいたら告別式に出席するかもしれないと約して、Sの家を辞した。
 私の記憶にのこつてゐる面影では、ひどく神経質らしい相手だつたが、その男がその後生き難い時代をどのやうに生きてゐたのだらうか。一生に三度ばかり口をきいた男、脳に悲劇が発生して惨死した男……私は何かしーんとした底で茫然とするのだつた。

 それは満州事変の始まる前の年の晩秋の午後のことだつた。K大学の合併授業で、私は自分の席から少し離れた前の席に着席した男の机の上に置いてある書物の表紙をちらりと見た。ローザ・ルクセンブルグ「経済学入門」その題名が私の注意を惹くと時々そつと私はその男を眺めだした。後から見る首筋や耳や髪の生え具合に何か烈しさ
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