にまで侵入することは全く稀有のことらしい、とSは新しい註釈をつけ加へた。
「その山宮泉は昔、芥川龍之介論で『歯車』のことを書いていて、人間の脳の襞を無数の蝨《しらみ》が喰ひ荒らしてゆく幻想をとりあげてゐるのだが……」と、Sは何か暗合のおそろしさをおもふやうな顔つきをした。それからSと細君は明日S学園で行はれるその告別式の都合を話合つてゐたが、Sは明日都合つかないので細君に是非代理で出てくれと頼み、山宮泉には、友人も身内も少ないので一人でも沢山行つてやつた方がいいと云つてゐるのだつた。「山宮」「山宮泉」ときいてゐるうち私はさきほどから私の脳の一点を何か掠めてゆくものがあるやうにおもへた。
「その山宮といふ人はもしかするとK大の文科を出た人ではないかしら」
「あ、学校はK大だつた……」
「あ、あの男かしら」と私はうなだれて考へ込んだ。
「へえ、知つてゐたのですか」とSは驚いた。
 知つてゐたといふ程の間柄でもなかつた。昔その男と私は三度ばかり口をきいたことがある。そして一度私に葉書をくれたことがあつた。その葉書に山宮泉とあつたのが、その微かな記憶がふと私の脳に点火されたのだつた。私はその簡
前へ 次へ
全17ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング