になつた。祭壇に飾つてある小村菊夫の写真を見上げると、茫とした白い顔は少し悲しげに微笑してゐるのではないかとおもへた。それから私は母堂に挨拶を述べるとすぐその家を辞した。中野駅の近くまで歩いて来ると、恰度、店頭のラジオがシヨパンらしい清冽なピアノを私の耳に投げかけて来た。
私は小村菊夫と生前たつた一度しか逢つてゐない。それも昨年私が神田の事務所の一室に移れる手筈になつて、引越の荷拵へをしてゐる年末の日だつた。部屋は品物でごつた返してゐたが、罹災以来転々として持運ばれてゐる僅かばかりの品物は、いい加減傷つき汚れてゐて、自分ながら悲惨に見えた。そこへ小村菊夫が訪ねて来たのだ。私は何か軽い狼狽を感じながら、窓の近くに坐をすすめると、彼は背広服のずぼんを端折つてそつと坐つた。その顔のなかには何か緊張と弱々しいものが混つてゐた。
「まだ熱が出たりするのですが、散歩がてらお訪ねしました」
かう云つて彼は持参の原稿を畳の上に置いた。前から私は彼の作品に惹きつけられてゐたので、私たちの同人雑誌に原稿を依頼してゐたのだつた。愛のほの温かさや死の澄んだ瞳を見つめて囁くやうに美しい彼の詩は私にとつて不思
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