わたしの昔の愛人の後姿を見た。そんなはずはなかつた。愛人は昔もう死んでゐたから。だけどわたしの目に見えるその後姿はわたしの目を離れなかつた。わたしはこつそり後からついて歩いた。どこまでも、どこまでも、この世の果ての果てまでも見失ふまいとする熱望が突然わたしになにか囁きかけた。そんなはずはなかつた。わたしは昔それほど熱狂したおぼえはなかつた。わたしはわたしが怕くなりかかつた。突然、その後姿がわたしの方を振向いてゐた。突き刺すやうな眼なざしで、……ハツと思ふ瞬間、それはわたしの夫だつた。そんなはずはなかつた。夫はあのとき死んでしまつたのだから。突き刺すやうな眼なざしに、わたしはざくりと突き刺されてしまつてゐた。熱い熱いものが背筋を走ると足はワナワナ震へ戦いた。人ちがひだ、人ちがひだ、とパツと叫んでわたしは逃げだしたくなる。わたしはそれでも気をとりなほした。わたしを突き刺した眼なざしの男は、次の瞬間、人混みの青い闇に紛れ去つてゐた。後姿はまだチラついたが……。
 人ちがひだ、人ちがひだつた、わたしはわたしに安心させようとした。後姿はまだチラついたが……わたしはわたしの眼を信じようとした。わた
前へ 次へ
全60ページ中29ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング