しはハツキリ眼をあけてゐたかつた。水晶のやうに澄みわたつて見える、そんな視覚をとりもどしたかつた。澄みきつた水の底に泳ぐ魚の見える、そんな感覚をよびもどしたかつた。だけど、わたしはがつかりしたのか、ひどく視力がゆるんでしまつた。怕しい怕しいことに出喰はした後の、ゆるんだ視覚がわたしらしかつた。わたしはまはりの人混みのゆるい流れにもたれかかるやうにして歩いた。後姿はまだチラついたが……。
わたしはそれでも気をとりなほした。人混みのゆるい流れにもたれかかるやうにして歩いて、何処へ行くのか迷つてはゐなかつた。いつものやうにデパートの裏口から階段を昇り、そこまで行つたが、ときどき何かがつかりしたものが、わたしのまはりをザラザラ流れる。品物を渡して金を受取らうとすると、わたしは突然泣けさうになつた。金を受取るといふ、この世間竝の、あたりまへの、何でもない行為が、突然わたしを罪人のやうな気持にさせた。そんな気持になつてはいけない、今はよほどどうかしてゐる。わたしはわたしを支へようとした。今はよほどどうかしてゐる。しつかりしてゐないと、何だか空間がパチンと張裂けてしまふ。何気なく礼を云つてその金を
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