だ。僕はもつと探してみたい。嘆き? 人生でたつた一つ美しいのは嘆きなのだらうか。
 それから僕は彷徨つて行つた。僕はやつぱし何かを探してゐるのだ。僕が死んだ母のことを知つてしまつたことは僕の父に知られてしまつた。それから間もなく僕は東京へやられた。それから僕は東京を彷徨つて行つた。東京は僕を彷徨はせて行つた。(僕のなかできこえる僕の雑音……。ライターが毀れてしまつた。石鹸がない。靴の踵がとれた。時計が狂つた。書物が欲しい。ノートがくしやくしやだ。僕はくしやくしやだ。僕はバラバラだ。書物は僕を理解しない。僕も書物を理解できない。僕は気にかかる。何もかも気にかかる。くだらないものが一杯充満して散乱する僕の全存在、それが一つ一つ気にかかる。教室で誰かが誰かと話をしてゐる。人は僕のことを喋つてゐるのかしら。向側の舗道を人間が歩いてゐる。あれは僕なのかしら。音楽がきこえてくる。僕は音楽にされてしまつてゐる。下宿の窓の下を下駄の音が走る。走つてゐるのは僕だ。以前のことを思つては駄目だ、こちらは日毎に苦しくなつて行く……父の手紙。父の手紙は僕を揺るがす。伊作さん立派になつて下さい立派に、……伯母の声
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