を隔てて、その両側に僕はゐる。僕の父母の仮りの宿と僕の伯母の仮りの家と……。伯母の家の方向へ僕が歩いてゆくとき、僕の足どりは軽くなる。僕の眼には何かちらと昔みたことのある美しい着物の模様や、何でもないのにふと僕を悦ばしてくれた小さな品物や、そんなものがふと浮んでくる。そんなものが浮んでくると僕は僕が懐しくなる。伯母とあふたびに、もつと懐しげなものが僕につけ加はつてゆく。伯母の云つてくれることなら、伯母の言葉ならみんな僕にとつて懐しいのだ。僕は伯母の顔の向側に母をみつけようとしてゐるのかしら。だが、死んだ母の向側には何があるのか。向側よ、向側よ、……ふと何かが僕のなかで鳴りひびきだす。僕は軽くなる。僕は柔かにふくれあがる。涙もろくなる。嘆きやすくなる。嘆き? 今まで知らなかつたとても美しい嘆きのやうなものが僕を抱き締める。それから何も彼もが美しく見えてくる。嘆き? 靄にふるへる廃墟まで美しく嘆く。あ、あれは死んだ人たちの嘆きと僕たちの嘆きがひびきあふからだらうか。嘆き? 嘆き? 僕の人生でたつた一つ美しかつたのは嘆きなのだらうか? わからない、僕は若いのだ。僕の人生はまだ始つたばかりなの
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