うな疼きをおぼえた。あれは迷ひ子の郷愁なのだらうか。僕は地上の迷ひ子だつたのだらうか。さうだ、僕はもつとはつきり思ひ出せさうだ。
僕は僕の向側にゐた。子供の僕ははつきりと、それに気づいたのではなかつた。が、子供の僕は、しかしやはり振り墜されてゐる人間ではなかつたのだらうか。安らかな、穏やかな、殆ど何の脅迫の光線も届かぬ場所に安置されてゐる僕がふとどうにもならぬ不安に駆りたたれてゐた。そこから奈落はすぐ足もとにあつた。無限の墜落感が……。あんな子供のときから僕の核心にあつたもの、……僕がしきりと考へてゐるのはこのことだらうか。僕はもつとはつきり思ひ出せさうだ。
僕は僕の向側にゐる。樹木があつた。僕は樹木の側に立つて向側を眺めてゐた。向側にも樹木があつた。あれは僕が僕といふものの向側を眺めようとしだす最初の頃かもしれなかつた。少年の僕は向側にある樹木の向側に幻の人間を見た。今にも嵐になりさうな空の下を悲痛に叩きつけられた巨人が歩いてゐた。その人の額には人類のすべての不幸、人間のすべての悲惨が刻みつけられてゐたが、その人はなほ昂然と歩いてゐた。獅子の鬣《たてがみ》のやうに怒つた髪、鷲の眼
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