。ある日、お前が眺めてゐた庭の若竹の陽ざしのゆらぎや、僕が眺めてゐたお前のかほつきを……。僕は僕の向側にもゐる。僕は僕の向側にもゐる。お前は生きてゐた。アパートの狭い一室で僕はお前の側にぼんやり坐つてゐた。美しい五月の静かな昼だつた。鏡があつた。お前の側には鏡があつた。鏡に窓の外の若葉が少し映つてゐた。僕は鏡に映つてゐる窓の外のほんの少しばかし見える青葉に、ふと、制し難い郷愁が湧いた。「もつともつと青葉が一ぱい一ぱい見える世界に行つてみないか。今すぐ、今すぐに」お前は僕の突飛すぎる調子に微笑した。が、もうお前もすぐキラキラした迸るばかりのものに誘はれてゐた。軽い浮々したあふるるばかりのものが湧いた。一人の人間に一つの調子が湧くとき、すぐもう一人の人間にその調子がひびいてゆくこと、僕がふと考へてゐるのはこのことなのだらうか。
僕はもつとはつきり思ひ出せさうだ。僕は僕の向側にゐる。鏡があつた。あれは僕が僕といふものに気づきだした最初のことかもしれなかつた。僕は鏡のなかにゐた。僕の顔は鏡のなかにあつた。鏡のなかには僕の後の若葉があつた。ふと僕は鏡の奥の奥のその奥にある空間に迷ひ込んでゆくや
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