なにものももうわたしから始らないのかとおもふと、わたしのなかにすべての慟哭がむらがつてくる。わたしの視てゐる碧い碧い波……あんなに碧い波も、ああ、昔、昔、……人間が視ては何かを感じ何かを考へ何かを描いてゐたのだらうに、……その碧い碧い波ももうわたしの……わたし以前のしのびなきにすぎない。死・愛・孤独・夢……さうした抽象観念ももはやわたしにとつて何にならう。わたしの吐く息の一つ一つにすべての記憶はこぼれ墜ち、記号はもはや貯えおくべき場を喪つてゆく。ああ、生命《いのち》……生命……これが生命あるものの最後の足掻なのだらうか。ああ、生命、生命、……人類の最後の一人が息をひきとるときがこんなに速くこんなに速くもやつてきたのかとおもふと、わたしのなかにすべての悔恨がふきあがつてくる。なぜに人間は……なぜに人間は……なぜ人間は……ああ、しかし、もうなにもかもとりかへしのつかなくなつてしまつたことなのだ。わたしひとりではもはやどうにもならない。わたしひとりではもはやどうしやうもない。わたしはわたしの吐く息の一つ一つにはつきりとわたしを刻みつけ、まだわたしの生きてゐることをたしかめてゐるのだらうか。わたしはわたしの吐く息の一つ一つに吸ひ込まれ、わたしの無くなつてゆくことをはつきりとあきらめてゐるのだらうか。ああ、しかし、もうどちらにしても同じことのやうだ。
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〈更にもう一つの声が〉
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……わたしはあのとき殺されかかつたのだが、ふと奇蹟的に助かつて、ふとリズムを発見したやうな気がした。リズムはわたしのなかから湧きだすと、わたしの外にあるものがすべてリズムに化してゆくので、わたしは一秒ごとに熱狂しながら、一秒ごとに冷却してゆくやうな装置になつた。わたしは地上に落ちてゐたヴアイオリンを拾ひあげると、それを弾きながら歩いてみたが、わたしの霊感は緊張しながら遅緩し、痙攣しながら流動し、どこへどう伸びてゐくのかわからなくなる。わたしは詩のことも考へてみる。わたしにとつて詩は、(詩はわななく指で みだれ みだれ 細い文字の こころのうづき)だが、わたしにとつて詩は、(詩は情緒のなかへ崩れ墜ちることではない、きびしい稜角をよぢのぼらうとする意志だ)わたしは人波のなかをはてしなくはてしなくさまよつてゐるやうだ。わたしが発見したとおもつたのは衝動だつたのかしら、わたしをさまよはせてゐるのは痙攣なのだらうか。まだわたしは原始時代の無数の痕跡のなかで迷ひ歩いてゐるやうだつた。
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〈更にもう一つの声が〉
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……わたしはあのとき死んでしまつたが、ふとどうしたはずみか、また地上によびもどされてゐるやうだ。あれから長い長い年月が流れたかとおもふと、青い青い風の外套、白い白い雨の靴……。帽子? 帽子はわたしには似合はなかつた。生き残つた人間はまたぞろぞろと歩いてゐた。長い長い年月が流れたかとおもつたのに。街の鈴懸は夏らしく輝き、人の装ひはいぢらしくなつてゐた。ある日、突然、わたしの歩いてゐる街角でパチンと音と光が炸裂した。雷鳴なのだ。忽ち雨と風がアスフアルトの上をザザザと走りまはつた。走り狂ふ白い烈しい雨脚を美しいなとおもつてわたしはみとれた。みとれてゐるうちに泣きたくなるほど烈しいものを感じだした。あのなかにこそ、あのなかにこそ、とわたしはあのなかに飛込んでしまひたかつた。だが、わたしは雨やどりのため、時計店のなかに這入つて行つた。ガラスの筒のなかに奇妙な置時計があつた。時計の上にくつついてゐる小さな鳥の玩具が一秒毎に向を変へて動いてゐる。わたしはその鳥をぼんやり眺めてゐると、ふと、望みにやぶれた青年のことがおもひうかんだ。人の世の望みに破れて、かうして、くるくると動く小鳥の玩具をひとりぼんやり眺めてゐる青年のことが……。だが、わたしはどうしてそんなことを考へてゐるのか。わたしも望みに破れた人間らしい。わたしには息子はない、妻もない。わたしは白髪の老教師なのだが。もしわたしに息子があるとすれば、それは沙漠に生き残つてゐる一匹の蜥蜴らしい。わたしはその息子のために、あの置時計を購つてやりたかつた。息子がそいつをパタンと地上に叩きつける姿が見たかつたのだ。
……………………
声はつぎつぎに僕に話しかける。雑沓のなかから、群衆のなかから、頭のなかから、僕のなかから。どの声もどの声も僕のまはりを歩きまはる。どの声もどの声も救ひはないのか、救ひはないのかと繰返してゐる。その声は低くゆるく群盲のやうに僕を押してくる。押してくる。押してくる。さうだ、僕は何年間押されとほしてゐるのか。僕は僕をもつとはつきりたしかめたい。しかし、僕はもう僕を何度も何度もたしかめたはずだ。今の今、僕のな
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