かには何があるのか。救ひか? 救ひはないのか救ひはないのかと僕は僕に回転してゐるのか。回転して押されてゐるのか。それが僕の救ひか。違ふ。絶対に違ふ。僕は僕にきつぱりと今云ふ。僕は僕に飛びついても云ふ。
 ……救ひはない。
 僕は突離された人間だ。還るところを失つた人間だ。突離された人間に救ひはない。還るところを失つた人間に救ひはない。
 では、僕はこれで全部終つたのか。僕のなかにはもう何もないのか。僕は回転しなくてもいいのか。僕は存在しなくてもいいのか。違ふ。それも違ふ。僕は僕に飛びついても云ふ。
 ……僕にはある。
 僕にはある。僕にはある。僕にはまだ嘆きがあるのだ。僕にはある。僕にはある。僕には一つの嘆きがある。僕にはある。僕にはある。僕には無数の嘆きがある。
 一つの嘆きは無数の嘆きと結びつく。無数の嘆きは一つの嘆きと鳴りひびく。僕は僕に鳴りひびく。鳴りひびく。鳴りひびく。嘆きは僕と結びつく。僕は結びつく。僕は無数と結びつく。鳴りひびく。無数の嘆きは鳴りひびく。鳴りひびく。一つの嘆きは鳴りひびく。鳴りひびく。一つの嘆きは無数のやうに。結びつく、一つの嘆きは無数のやうに。一つのやうに、無数のやうに。鳴りひびく。結びつく。嘆きは嘆きに鳴りひびく。嘆きのかなた、嘆きのかなた、嘆きのかなたまで、鳴りひびき、結びつき、一つのやうに、無数のやうに……。
 一つの嘆きよ、僕をつらぬけ。無数の嘆きよ、僕をつらぬけ。僕をつらぬくものは僕をつらぬけ。僕をつらぬくものは僕をつらぬけ。嘆きよ、嘆きよ、僕をつらぬけ。……戻つて来た、戻つて来た、僕の歌ごゑが僕にまた戻つて来た。これは僕の錯乱だらうか。これは僕の無限回転だらうか。だが、戻つて来るやうだ、戻つてくるやうだ。何かが今しきりに戻つて来るやうだ。僕のなかに僕のすべてが……。僕はだんだん爽やかに人心地がついてくるやうだ。僕が生活してゐる場がどうやらわかつてくるやうだ。僕は群衆のなかをさまよひ歩いてばかりゐるのではないやうだ。僕は頭のなかをうろつき歩いてばかりゐるのでもないやうだ。久しい以前から僕は踏みはづした、ふらふらの宇宙にばかりゐるのでもないやうだ。久しい以前から、既に久しい以前から、鎮魂歌を書かうと思つてゐるやうなのだ。鎮魂歌を、鎮魂歌を、僕のなかに戻つてくる鎮魂歌を……。
 僕は街角の煙草屋で煙草を買ふ。僕は突離された人間だ。だが殆ど毎朝のやうにここで煙草を買ふ。僕は煙草をポケツトに入れてロータリを渡る。舗道を歩いて行く。舗道にあふれる朝の鎮魂歌……。僕がいつも行く外食食堂の前にはいつものやうに靴磨屋がゐる。舗道の細い空地には鶏を入れた箱、箱のなかで鶏が動いてゐる。いつものやうに何もかもある。電車が、自動車が、さまざまの音響が、屋根の上を横切る燕が、通行人が、商店が、いつものやうに何もかも存在する。僕は還るところを失つた人間。だが僕の嘆きは透明になつてゐる。何も彼も存在する。僕でないものの存在が僕のなかに透明に映つてくる。それは僕のなかを突抜けて向側へ飜つて行く。向側へ、向側へ、無限の彼方へ……、流れてゆく。なにもかも流れてゆく。素直に静かに、流れてゆくことを気づかないで、いつもいつも流れてゆく。僕のまはりにある無数の雑音、無数の物象、めまぐるしく、めまぐるしく、動きまはるものたち、それらは静かに、それらは素直に、無限のかなたで、ひびきあひ、結びつき、流れてゆくことを気づかないで、いつもいつも流れてゆく。書店の飾窓の新刊書、カバンを提げた男、店頭に置かれてゐる鉢植の酸漿、……あらゆるものが無限のかなたで、ひびきあひ、結びつき、ひそかに、ひそかに、もつとも美しい、もつとも優しい囁きのやうに。僕はいつも行く喫茶店に入り椅子に腰を下ろす。いつもゐる少女は、いつものやうに僕が黙つてゐても珈琲を運んでくる。僕は剥ぎとられた世界の人間。だが、僕はゆつくり煙草を吸ひ珈琲を飲む。僕のテーブルの上の花瓶に生けられてゐる白百合の花。僕のまはりの世界は剥ぎとられてはゐない。僕のまはりのテーブルの見知らぬ人たちの話声、店の片隅のレコードの音、僕が腰を下ろしてゐる椅子のすぐ後の扉を通過する往来の雑音。自転車のベルの音。剥ぎとられてゐない懐しい世界が音と形に充満してゐる。それらは僕の方へ流れてくる。僕を突抜けて向側へ移つてゆく。透明な無限の速度で向側へ向側へ向側へ無限のかなたへ。剥ぎとられてゐない世界は生活意欲に充満してゐる。人間のいとなみ、日ごとのいとなみ、いとなみの存在、……それらは音と形に還元されていつも僕のなかを透明に横切る。それらは無限の速度で、静かに素直に、無限のかなたで、ひびきあひ、むすびつき、流れてゆく、憧れのやうにもつとも激しい憧れのやうに、祈りのやうに、もつとも切なる祈りのやうに。
 それから
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