鎮魂歌
原民喜
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)鬣《たてがみ》のやうに
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美しい言葉や念想が殆ど絶え間なく流れてゆく。深い空の雲のきれ目から湧いて出てこちらに飛込んでゆく。僕はもう何年間眠らなかつたのかしら。僕の眼は突張つて僕の唇は乾いてゐる。息をするのもひだるいやうな、このふらふらの空間は、ここもたしかに宇宙のなかなのだらうか。かすかに僕のなかには宇宙に存在するものなら大概ありさうな気がしてくる。だから僕が何年間も眠らないでゐることも宇宙に存在するかすかな出来事のやうな気がする。僕は人間といふものをどのやうに考へてゐるのかそんなことをあんまり考へてゐるうちに僕はたうとう眠れなくなつたやうだ。僕の眼は突張つて僕の唇は乾いてゐる、息をするのもひだるいやうな、このふらふらの空間は……。
僕は気をはつきりと持ちたい。僕は僕をはつきりとたしかめたい。僕の胃袋に一粒の米粒もなかつたとき、僕の胃袋は透きとほつて、青葉の坂路を歩くひよろひよろの僕が見えてゐた。あのとき僕はあれを人間だとおもつた。自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ、僕は自分に繰返し繰返し云ひきかせた。それは僕の息づかひや涙と同じやうになつてゐた。僕の眼の奥に涙が溜つたとき焼跡は優しくふるへて霧に覆はれた。僕は霧の彼方の空にお前を見たとおもつた。僕は歩いた。僕の足は僕を支へた。人間の足。驚くべきは人間の足なのだ。廃墟にむかつて、ぞろぞろと人間の足は歩いた。その足は人間を支へて、人間はたえず何かを持運んだ。少しづつ、少しづつ人間は人間の家を建てて行つた。
人間の足。僕はあのとき傷ついた兵隊を肩に支へて歩いた。兵隊の足はもう一歩も歩けないから捨てて行つてくれと僕に訴へた。疲れはてた朝だつた。橋の上を生存者のリヤカーがいくつも威勢よく通つてゐた。世の中にまだ朝が存在してゐるのを僕は知つた。僕は兵隊をそこに残して歩いて行つた。僕の足。突然頭上に暗黒が滑り墜ちた瞬間、僕の足はよろめきながら、僕を支へてくれた。僕の足。僕の足。僕のこの足。恐しい日々だつた。滅茶苦茶の時だつた。僕の足は火の上を走り廻つた。水際を走りまわつた。悲しい路を歩きつづけた。ひだるい長い路を歩きつづけた。真暗な長いひだるい悲しい夜の路を歩きとほした。生きるために歩きつづけた。生きてゆくことができるのかしらと僕は星空にむかつて訊ねてみた。自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ。僕を生かしておいてくれるのはお前たちの嘆きだ。僕を歩かせてゆくのも死んだ人たちの嘆きだ。お前たちは星だつた。お前たちは花だつた。久しい久しい昔から僕が知つてゐるものだつた。僕は歩いた。僕の足は僕を支へた。僕の眼の奥に涙が溜るとき、僕は人間の眼がこちらを見るのを感じる。
人間の眼。あのとき、細い細い糸のやうに細い眼が僕を見た。まつ黒にまつ黒にふくれ上つた顔に眼は絹糸のやうに細かつた。河原にずらりと並んでゐる異形の重傷者の眼が、傷ついてゐない人間を不思議さうに振りむいて眺めた。不思議さうに、不思議さうに、何もかも不思議さうな、ふらふらの、揺れかへる、揺れかへつた後の、また揺れかへりの、おそろしいものに視入つてゐる眼だ。水のなかに浸つて死んでゐる子供の眼はガラス玉のやうにパツと水のなかで見ひらいてゐた。両手も両足もパツと水のなかに拡げて、大きな頭の大きな顔の悲しげな子供だつた。まるでそこへ捨てられた死の標本のやうに子供は河淵に横はつてゐた。それから死の標本はいたるところに現れて来た。
人間の死体。あれはほんたうに人間の死骸だつたのだらうか。むくむくと動きだしさうになる手足や、絶対者にむかつて投げ出された胴、痙攣して天を掴まうとする指……。光線に突刺された首や、喰ひしばつて白くのぞく歯や、盛りあがつて喰みだす内臓や……。一瞬に引裂かれ、一瞬にむかつて挑まうとする無数のリズム……。うつ伏せに溝に墜ちたものや、横むきにあふのけに、焼け爛れた奈落の底に、墜ちて来た奈落の深みに、それらは悲しげにみんな天を眺めてゐるのだつた。
人間の屍体。それは生存者の足もとにごろごろと現れて来た。それらは僕の足に絡みつくやうだつた。僕は歩くたびに、もはやからみつくものから離れられなかつた。僕は焼けのこつた東京の街の爽やかな鈴懸の朝の舗道を歩いた。鈴懸は朝ごとに僕の眼をみどりに染め、僕の眼は涼しげなひとの眼にそそいだ。僕の眼は朝ごとに花の咲く野山のけはひをおもひ、僕の耳は朝ごとにうれしげな小鳥の声にゆれた。自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ。僕を生かして僕を感動させるものがあるなら
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