、それはみなお前たちの嘆きのせゐだ。僕のなかで鳴りひびく鈴、僕は鈴の音にききとれてゐたのだが……。
 だが、このふらふらの揺れかへる、揺れかへつた後の、また揺れかへりの、ふらふらの、今もふらふらと揺れかへる、この空間は僕にとつて何だつたのか。めらめらと燃えあがり、燃え畢つた後の、また燃えなほしの、めらめらの、今も僕を追つてくる、この執拗な焔は僕にとつて何だつたのか。僕は汽車から振落されさうになる。僕は電車のなかで押つぶされさうになる。僕は部屋を持たない。部屋は僕を拒む。僕は押されて振落されて、さまよつてゐる。さまよつてゐる。さまよつてゐる。さまよつてゐるのが人間なのか。人間の観念と一緒に僕はさまよつてゐる。
 人間の観念。それが僕を振落し僕を拒み僕を押つぶし僕をさまよはし僕に喰らひつく。僕が昔僕であつたとき、僕がこれから僕であらうとするとき、僕は僕にピシピシと叩かれる。僕のなかにある僕の装置。人間のなかにある不可知の装置。人間の核心。人間の観念。観念の人間。洪水のやうに汎濫する言葉と人間。群衆のやうに雑沓する言葉と人間。言葉。言葉。言葉。僕は僕のなかにある ESSAY ON MAN の言葉をふりかへる。
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死について  死は僕を生長させた
愛について  愛は僕を持続させた
孤独について  孤独は僕を僕にした
狂気について  狂気は僕を苦しめた
情欲について  情欲は僕を眩惑させた
バランスについて  僕の聖女はバランスだ
夢について  夢は僕の一切だ
神について  神は僕を沈黙させる
役人について  役人は僕を憂鬱にした
花について  花は僕の姉妹たち
涙について  涙は僕を呼びもどす
笑について  僕はみごとな笑がもちたい
戦争について  ああ戦争は人間を破滅させる
[#ここで字下げ終わり]
 殆ど絶え間なしに妖しげな言葉や念想が流れてゆく。僕は流されて、押し流されてへとへとになつてゐるらしい。僕は何年間もう眠れないのかしら。僕の眼は突張つて、僕の空間は揺れてゐる。息をするのもひだるいやうな、このふらふらの空間……。ふと、揺れてゐる空間に白堊の大きな殿堂が見えて来る。僕はふらふらと近づいてゆく。まるで天空のなかをくぐつてゐるやうに……。大きな白堊の殿堂が僕に近づく。僕は殿堂の門に近づく。天空のなかから浮き出てくるやうに、殿堂の門が僕に近づく。僕はオベリスクに刻られた文字を眺める。僕は驚く。僕は呟く。

 原子爆弾記念館

 僕はふらふら階段を昇つてゆく。僕は驚く。僕は呟く。僕は訝る。階段は一歩一歩僕を誘ひ、廊下はひつそりと僕を内側へ導く。ここは、これは、ここは、これは……僕はふと空漠としたものに戸惑つてゐる。コトコトと靴音がして案内人が現れる。彼は黙つて扉を押すと、僕を一室に導く。僕は黙つて彼の後についてゆく。ガラス張りの大きな函の前に彼は立留る。函の中には何も存在してゐない。僕は眼鏡と聴音器の連結された奇妙なマスクを頭から被せられる。彼は函の側にあるスヰツチを静かに捻る。……突然、原爆直前の広島市の全景が見えて来た。
 ……突然、すべてが実際の現象として僕に迫つて来た。これはもう函の中に存在する出来事ではなささうだつた。僕は青ざめる。飛行機はもう来てゐた。見えてゐる。雲のなかにかすかに爆音がする。僕は僕を探す。僕はゐた。僕はあの家のあそこに……。あのときと同じやうに僕はゐた。僕の眼は街の中の、屋根の下の、路の上の、あらゆる人々の、あの時の位置をことごとく走り廻る。僕は叫ぶ。(厭らしい装置だ。あらゆる空間的角度からあらゆる空間現象を透視し、あらゆる時間的速度であらゆる時間的進行を展開さす呪ふべき装置だ。恥づべき詭計だ。何のために、何のために、僕にあれをもう一度叩きつけようとするのだ!)
 僕は叫ぶ。僕の眼に広島上空に閃く光が見える。光はゆるゆると夢のやうに悠然と伸び拡る。あツと思ふと光はさツと速度を増してゐる。が、再び瞬間が再分割されるやうに光はゆるゆるとためらひがちに進んでゆく。突然、光はさツと地上に飛びつく。地上の一切がさツと変形される。街は変形された。が、今、家屋の倒壊がゆるゆると再びある夢のやうな速度で進行を繰返してゐる。僕は僕を探す。僕はゐた。あそこに……。僕は僕に動顛する。僕は僕に叫ぶ。(虚妄だ。妄想だ。僕はここにゐる。僕はあちら側にゐない。僕はここにゐる。僕はあちら側にはゐない。)僕は苦しさにバタバタし、顔のマスクを捩ぎとらうとする。
 と、あのとき僕の頭上に墜ちて来た真暗な塊りのなかの藻掻きが僕の捩ぎとらうとするマスクと同じだ。僕はうめく。僕はよろよろと倒れさうになる。倒れまいとする。と、真暗な塊りのなかで、うめく僕と倒れまいとする僕と……。僕はマスクを捩ぎとらうとする。バタバタとあばれ
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