まはる。……スヰツチはとめられた。やがて案内人は僕の顔からマスクをはづしてくれる。僕は打ちのめされたやうにぐつたりしてゐる。案内人は僕をソフアのところへ連れて行つてくれる。僕はソフアの上にぐつたり横はる。
〈ソフアの上での思考と回想〉
僕はここにゐる。僕はあちら側にはいない。ここにゐる。ここにゐる。ここにゐる。ここにゐるのだ。ここにゐるのが僕だ。ああ、しかし、どうして、僕は僕にそれを叫ばねばならないのか。今、僕の横はつてゐるソフアは少しづつ僕を慰め、僕にとつて、ふと安らかな思考のソフアとなつてくる。……僕はここにゐる。僕は向側にはゐない。僕はここにゐる。ああ、しかし、どうしてまだ僕はそれを叫びたくなるのか。
……ふと、僕はK病院のソフアに横はつてガラス窓の向うに見える楓の若葉を見たときのことをおもひだす。あのとき僕は病気だと云はれたら無一文の僕は自殺するよりほかに方法はなかつたのだが……。あのとき僕は窓ガラスの向側の美しく戦く若葉のなかに、僕はゐたのではなかつたかしら。その若葉のなかには死んだお前の目なざしや嘆きがまざまざと残つてゐるようにおもへた。……僕はもつとはつきりおもひだす。ある日、お前が眺めてゐた庭の若竹の陽ざしのゆらぎや、僕が眺めてゐたお前のかほつきを……。僕は僕の向側にもゐる。僕は僕の向側にもゐる。お前は生きてゐた。アパートの狭い一室で僕はお前の側にぼんやり坐つてゐた。美しい五月の静かな昼だつた。鏡があつた。お前の側には鏡があつた。鏡に窓の外の若葉が少し映つてゐた。僕は鏡に映つてゐる窓の外のほんの少しばかし見える青葉に、ふと、制し難い郷愁が湧いた。「もつともつと青葉が一ぱい一ぱい見える世界に行つてみないか。今すぐ、今すぐに」お前は僕の突飛すぎる調子に微笑した。が、もうお前もすぐキラキラした迸るばかりのものに誘はれてゐた。軽い浮々したあふるるばかりのものが湧いた。一人の人間に一つの調子が湧くとき、すぐもう一人の人間にその調子がひびいてゆくこと、僕がふと考へてゐるのはこのことなのだらうか。
僕はもつとはつきり思ひ出せさうだ。僕は僕の向側にゐる。鏡があつた。あれは僕が僕といふものに気づきだした最初のことかもしれなかつた。僕は鏡のなかにゐた。僕の顔は鏡のなかにあつた。鏡のなかには僕の後の若葉があつた。ふと僕は鏡の奥の奥のその奥にある空間に迷ひ込んでゆくやうな疼きをおぼえた。あれは迷ひ子の郷愁なのだらうか。僕は地上の迷ひ子だつたのだらうか。さうだ、僕はもつとはつきり思ひ出せさうだ。
僕は僕の向側にゐた。子供の僕ははつきりと、それに気づいたのではなかつた。が、子供の僕は、しかしやはり振り墜されてゐる人間ではなかつたのだらうか。安らかな、穏やかな、殆ど何の脅迫の光線も届かぬ場所に安置されてゐる僕がふとどうにもならぬ不安に駆りたたれてゐた。そこから奈落はすぐ足もとにあつた。無限の墜落感が……。あんな子供のときから僕の核心にあつたもの、……僕がしきりと考へてゐるのはこのことだらうか。僕はもつとはつきり思ひ出せさうだ。
僕は僕の向側にゐる。樹木があつた。僕は樹木の側に立つて向側を眺めてゐた。向側にも樹木があつた。あれは僕が僕といふものの向側を眺めようとしだす最初の頃かもしれなかつた。少年の僕は向側にある樹木の向側に幻の人間を見た。今にも嵐になりさうな空の下を悲痛に叩きつけられた巨人が歩いてゐた。その人の額には人類のすべての不幸、人間のすべての悲惨が刻みつけられてゐたが、その人はなほ昂然と歩いてゐた。獅子の鬣《たてがみ》のやうに怒つた髪、鷲の眼のやうに鋭い目、その人は昂然と歩いてゐた。少年の僕は幻の人間を仰ぎ見ては訴へてゐた。僕は弱い、僕は弱い、僕は僕はこんなに弱いと。さうだ、僕はもつとはつきり思ひ出さなければならない。僕は弱い、僕は弱い、僕は弱いといふ声がするやうだ。今も僕のなかで、僕のなかで、その声が……。自分のために生きるな。死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ。僕のなかでまたもう一つの声がきこえてくる。
僕はソフアを立上る。僕は歩きだす。案内人は何処へ行つたのか姿が見えない。僕はひとりで、陳列戸棚の前を茫然と歩いてゐる。僕はもうこの記念館のなかの陳列戸棚を好奇心で覗き見る気は起らない。僕の想像を絶したものが既に発明され此処に陳列してあるとしても、はたしてこれは僕の想像を絶したものであらうか。そのものが既に発明されて此処に陳列してあること。陳列されてあること、陳列してあるといふこと、そのことだけが僕の想像を絶したことなのだ。僕は憂鬱になる。僕は悲惨になる。自分で自分を処理できない狂気のやうに、それらは僕を苦しめる。僕はひとり暗然と歩き廻つて、自分の独白にきき入る。泉。泉。泉こそは……
さうだ、泉こそはかすかに、か
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