かで誰かの声がする。僕はおどろく。その声は君か。友よ、友よ、遠方の友よ、その声は君なのか。忽ち僕の眼のまへに若い日の君のイメージは甦る。交響楽を、交響楽を、人類の大シンフオニーを夢みてゐた友よ。人間が人間とぴたりと結びつき、魂が魂と抱きあひ、歓声が歓声を煽りかへす日を夢みてゐた友よ。あの人類の大劇場の昂まりゆく波のイメージは……。だが(救ひはない、救ひはない)と友は僕に呼びつづける。(沈んでゆく、沈んでゆく、一切は地下に沈んでゆく。それすら無感覚のわれわれに今救ひはないのだ。一つの魂を救済することは一つの全生涯を破滅させても今は出来ない。奈落だ、奈落だ、今はすべてが奈落なのだ。今はこの奈落の底を見とどけることに僕は僕の眼を磨ぐばかりだ。)友よ、友よ、遠方の友よ、かなしい友よ、不思議な友よ。堪へて、堪へて、堪へ抜いてゐる友よ。救ひはないのか、救ひはないのか。……僕はふらふら歩き廻る。やつぱし歩き廻つてゐるのか。僕のまはりを歩きまはつてゐる群衆。僕の頭のなかの群衆。やつぱし僕は雑沓のなかをふらふら歩いてゐるのか。雑沓のなかから、また一つの声がきこえてくる。ゆるいゆるい声が僕に話しかける。

[#ここから2字下げ]
〈ゆるいゆるい声〉
[#ここで字下げ終わり]

 ……僕はあのときパツと剥ぎとられたと思つた。それからのこのこと外へ出て行つたが、剥ぎとられた後がザワザワ揺れてゐた。いろんな部分から火や血や人間の屍が噴き出てゐて、僕をびつくりさせたが、僕は剥ぎとられたほかの部分から何か爽やかなものや新しい芽が吹き出しさうな気がした。僕は医やされさうな気がした。僕は僕のなかに開かれたものを持つて生きて行けさうだつた。それで僕はそこを離れると遠い他国へ出かけて行つた。ところが僕を見る他国の人間の眼は僕のなかに生き残りの人間しか見てくれなかつた。まるで僕は地獄から脱走した男だつたのだらうか。人は僕のなかに死にわめく人間の姿をしか見てくれなかつた。「生き残り、生き残り」と人々は僕のことを罵つた。まるで何かわるい病気を背負つてゐるものを見るやうな眼つきで。このことにばかり興味をもつて見られる男でしかないかのやうに。それから僕の窮乏は底をついて行つた。他国の掟はきびしすぎた。不幸な人間に爽やかな予感は許されないのだらうか……。だが、僕のなかの爽やかな予感はどうなつたのか。僕はそれが無性に気にかかる。毎日毎日が重く僕にのしかかり、僕のまはりはだらだらと過ぎて行くばかりだつた。僕は僕のなかから突然爽やかなるものが跳ねだしさうになる。だが、だらだらと日はすぎてゆく……。僕のなかの爽やかなものは、……だが、だらだらと日はすぎてゆく。僕のなかの、だが、だらだらと、僕の背は僕の背負つてゐるものでだんだん屈められてゆく。

[#ここから2字下げ]
〈またもう一つのゆるい声が〉
[#ここで字下げ終わり]

 ……僕はあれを悪夢にたとへてゐたが、時間がたつに随つて、僕が実際みる夢の方は何だかひどく気の抜けたもののやうになつてゐた。たとへば夢ではあのときの街の屋根がゆるいゆるい速度で傾いて崩れてゆくのだ。空には青い青い茫とした光線がある。この妖しげな夢の風景には恐怖などと云ふより、もつともつとどうにもならぬ郷愁が喰らひついてしまつてゐるやうなのだ。それから、あの日あの河原にずらりと竝んでゐた物凄い重傷者の裸体群像にしたところで、まるで小さな洞窟のなかにぎつしり詰め込められてゐる不思議と可憐な粘土細工か何かのやうに夢のなかでは現れてくる。その無気味な粘土細工は蝋人形のやうに色彩まである。そして、時々、無感動に蠢めいてゐる。あれはもう脅迫などではなささうだ。もつともつとどうにもならぬ無限の距離から、こちら側へ静かにゆるやかに匍ひ寄つてくる憂愁に似てゐる。それから、あの焼け失せてしまつた家の夢にしたところで、僕の夢のなかでは僕の坐つてゐた畳のところとか、僕の腰かけてゐた窓側とかいふものはちよつとも現れて来ず、雨に濡れた庭石の一つとか、縁側の曲り角の朽ちさうになつてゐた柱とか、もつともつとどうにもならぬ侘しげなものばかりが、ふはふはと地霊のやうにしのび寄つてくる。僕と夢とあの惨劇を結びつけてゐるものが、こんなに茫々として気が抜けたものになつてゐるのは、どうしたことなのだらうか。

[#ここから2字下げ]
〈更にもう一つの声がゆるやかに〉
[#ここで字下げ終わり]

 ……わたしはたつた一人生き残つてアフリカの海岸にたどりついた。わたしひとりが人類の最後の生き残りかとおもふと、わたしの躯はぶるぶると震へ、わたしの吐く息の一つ一つがわたしに別れを告げてゐるのがわかる。わたしの視てゐる刹那刹那がすべてのものの終末かとおもふと、わたしは気が遠くなつてゆく。なにものももうわたしで終り、
前へ 次へ
全15ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング