わたしの昔の愛人の後姿を見た。そんなはずはなかつた。愛人は昔もう死んでゐたから。だけどわたしの目に見えるその後姿はわたしの目を離れなかつた。わたしはこつそり後からついて歩いた。どこまでも、どこまでも、この世の果ての果てまでも見失ふまいとする熱望が突然わたしになにか囁きかけた。そんなはずはなかつた。わたしは昔それほど熱狂したおぼえはなかつた。わたしはわたしが怕くなりかかつた。突然、その後姿がわたしの方を振向いてゐた。突き刺すやうな眼なざしで、……ハツと思ふ瞬間、それはわたしの夫だつた。そんなはずはなかつた。夫はあのとき死んでしまつたのだから。突き刺すやうな眼なざしに、わたしはざくりと突き刺されてしまつてゐた。熱い熱いものが背筋を走ると足はワナワナ震へ戦いた。人ちがひだ、人ちがひだ、とパツと叫んでわたしは逃げだしたくなる。わたしはそれでも気をとりなほした。わたしを突き刺した眼なざしの男は、次の瞬間、人混みの青い闇に紛れ去つてゐた。後姿はまだチラついたが……。
 人ちがひだ、人ちがひだつた、わたしはわたしに安心させようとした。後姿はまだチラついたが……わたしはわたしの眼を信じようとした。わたしはハツキリ眼をあけてゐたかつた。水晶のやうに澄みわたつて見える、そんな視覚をとりもどしたかつた。澄みきつた水の底に泳ぐ魚の見える、そんな感覚をよびもどしたかつた。だけど、わたしはがつかりしたのか、ひどく視力がゆるんでしまつた。怕しい怕しいことに出喰はした後の、ゆるんだ視覚がわたしらしかつた。わたしはまはりの人混みのゆるい流れにもたれかかるやうにして歩いた。後姿はまだチラついたが……。
 わたしはそれでも気をとりなほした。人混みのゆるい流れにもたれかかるやうにして歩いて、何処へ行くのか迷つてはゐなかつた。いつものやうにデパートの裏口から階段を昇り、そこまで行つたが、ときどき何かがつかりしたものが、わたしのまはりをザラザラ流れる。品物を渡して金を受取らうとすると、わたしは突然泣けさうになつた。金を受取るといふ、この世間竝の、あたりまへの、何でもない行為が、突然わたしを罪人のやうな気持にさせた。そんな気持になつてはいけない、今はよほどどうかしてゐる。わたしはわたしを支へようとした。今はよほどどうかしてゐる。しつかりしてゐないと、何だか空間がパチンと張裂けてしまふ。何気なく礼を云つてその金を受取ると、わたしは一つの危機を脱したやうな気がしたものだ。それからわたしは急いで歩いた。急がなければ、急がなければ、後から何かが追かけてくる。わたしは急いで歩いてゐるはずだつたが、ときどきぼんやり立どまりさうになつた。後姿はまだチラついた。
 家に戻つても落着けなかつた。わたしはよほどどうかしてゐる。わたしはよほどどうかしてゐる。今すぐ今すぐしつかりしないと大変なことになりさうだつた。わたしはわたしを支へようとした。わたしはわたしに凭れかかつた。ゆるくゆるくゆるんで行く睡い瞼のすぐまのあたりを凄い稲妻がさツと流れた。わたしはうとうと睡りかかるとハツとわたしは弾きかへされた。後姿がまたチラついた。青いわたしの脊髄の闇に……。
 わたしはわたしに迷はされてゐるらしい。わたしはわたしに脅えだしたらしい。何でもないのだ、何でもないのだ、わたしなんかありはしない。昔から昔からわたしはわたしをわたしだと思つたことなんかありはしない。お盆の上にこぼれてゐた水、あの水の方がわたしらしかつた。水、……水、……水、……わたしは水になりたいとおもつた。青い蓮の葉の上でコロコロ転んでゐる水銀の玉、蜘蛛の巣をつたつて走る一滴の水玉、そんな優しい小さなものに、そんな美しい小さなものに、わたしはなれないのかしら。わたしはわたしを宥めようとおもふと、静かな水が眼の前をながれた。静かな水は苔の上をながれる。小川の水が静かに流れる。あつちからもこつちからも川が流れる。白帆が見える、燕が飛んだ。川の水はうれしげに海にむかつて走つた。海はたつぷりふくらんでゐた。たのしかつた。うれしさうだつた、懐しかつた。鴎がヒラヒラ閃いてゐた。海はひろびろと夢をみてゐるやうだつた。夢がだんだん仄暗くなつたとき、突然、海の上を光線が走つた。海は真暗に割れて裂けた。わたしはわたしに弾きかへされた。わたしはわたしにいらだちだした。わたしはわたしだ、どうしてもわたしだ。わたしのほかにわたしなんかありはしない。わたしはわたしに獅噛みつかうとした。わたしは縮んで固くなつてゐた。小さく小さく出来るだけ小さく、もうこれ以上小さくなれなかつた。もうこれ以上は固まれさうになかつた。わたしはわたしだ、どうしてもわたしだ。小さな殻の固いかたまり、わたしはわたしを大丈夫だとおもつた。とおもつた瞬間また光線が来た。わたしは真二つに割られてゐたやうだ
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