。それから後はいろいろのことが前後左右縦横に入乱れて襲つて来た。わたしは苦しかつた。わたしは悶えた。
地球の裂け目が見えて来た。それは紅海と印度洋の水が結び衝突し渦巻いてゐる海底だつた。ギシギシと海底が割れてゆくのに、陸地の方では何にも知らない。世界はひつそり静まつてゐた。ヒマラヤ山のお花畑に青い花が月光を吸つてゐた。そんなに地球は静かだつたが、海底の渦はキリキリ舞つた。大変なことになる大変なことになつたとわたしは叫んだ。わたしの額のなかにギシギシと厭な音がきこえた。わたしは鋏だけでも持つて逃げようかとおもつた。わたしは予感で張裂けさうだ。それから地球は割れてしまつた。濛々と煙が立騰るばかりで、わたしのまはりはひつそりしてゐた。煙の隙間に見えて来た空間は鏡のやうに静かだつた。と何か遠くからザワザワと潮騒のやうなものが押し寄せてくる。騒ぎはだんだん近づいて来た。と目の前にわたしは無数の人間の渦を見た。忽ち渦の両側に絶壁がそそり立つた。すると青空は無限の彼方にあつた。「世なほしだ! 世なほしだ!」と人間の渦は苦しげに叫びあつて押合ひ犇めいてゐる。人間の渦は藻掻きあひながら、みんな天の方へ絶壁を這ひのぼらうとする。わたしは絶壁の硬い底の窪みの方にくつついてゐた。そこにをれば大丈夫だとおもつた。が、人間の渦の騒ぎはわたしの方へ拡つてしまつた。わたしは押されて押し潰されさうになつた。わたしはガクガク動いてゆくものに押されて歩いた。後から後からわたしを小衝いてくるもの、ギシギシギシギシ動いてゆくものに押されて歩いてゐるうち、わたしの硬かつた足のうらがふはふはと柔かくなつてゐた。わたしはふはふは歩いて行くうちに、ふと気がつくと沙漠のやうなところに来てゐた。いたるところに水溜りがあつた。水溜りは夕方の空の血のやうな雲を映して燃えてゐた。やつぱし地球は割れてしまつてゐるのがわかる。水溜りは焼け残つた樹木の歯車のやうな影を映して怒つてゐた。大きな大きな蝙蝠が悲しげに鳴叫んだ。わたしもだんだん悲しくなつた。わたしはだんだん透きとほつて来るやうな気がした。透きとほつてゆくやうな気がするのだけれど、足もとも眼の前も心細く薄暗くなつてゆく。どうも、わたしはもう還つてゆくところを失つた人間らしかつた。わたしは水溜りのほとりに蹲つてしまつた。両方の掌で頬をだきしめると、やがて頭をたれて、ひとり静かに泣き耽つた。ひつそりと、うつとりと、まるで一生涯の涙があふれ出るやうに泣いてゐたのだ。ふと気がつくと、あつちの水溜りでも、こちらの水溜りでも、いたるところの水溜りにひとりづつ誰かが蹲つてゐる。ひつそりと蹲つて泣いてゐる。では、あの人たちももう還つてゆくところを失つた人間なのかしら、ああ、では、やつぱし地球は裂けて割れてしまつたのだ。ふと気がつくと、わたしの水溜りのすぐ真下に階段が見えて来た。ずつと下に降りて行けるらしい階段をわたしはふらふら歩いて行つた。仄暗い廊下のやうなところに突然、目がくらむやうな隙間があつた。その隙間から薄荷の香りのやうな微風が吹いてわたしの頬にあたつた。見ると、向うには真青な空と赤い煉瓦の塀があつた。夾竹桃の花が咲いてゐる。あの塀に添つてわたしは昔わたしの愛人と歩いてゐたのだ。では、あの学校の建ものはまだ残つてゐたのかしら。……そんな筈はなかつた、あそこらもあの時ちやんと焼けてしまつたのだから。わたしのそばでギザギザと鋏のやうな声がした。その声でわたしはびつくりして、またふらふら歩いて行つた。また隙間が見えて来た。わたしの生れた家の庭さきの井戸が、山吹の花が明るい昼の光に揺れて。……そんな筈はなかつた、あそこはすつかり焼けてしまつたのだから。またギザギザの鋏の声でわたしはびつくりしてゐた。また隙間が見えて来る。仄暗い廊下のやうなところははてしなくつづいた。……それからわたしはまたぞろぞろ動くものに押されて歩いてゐた。わたしは腰を下ろしたかつた。腰を下ろして何か食べようとしてゐた。すると急に何かぱたんとわたしのなかで滑り墜ちるものがあつた。わたしは素直に立上つて、ぞろぞろ動くものに随いておとなしく歩いた。さうしてゐれば、わたしはどうにかわたしにもどつて来さうだつた。みんな人間はぞろぞろ動いてゆくやうだつた。その足音がわたしの耳には絶え間なしにきこえる。無数に交錯する足音についてわたしの耳はぼんやり歩き廻る。足音、足音、どうしてわたしは足音ばかりがそんなに懐しいのか。人がざわざわ歩き廻つて人が一ぱい群れ集つてゐる場所の無数の足音が、わたしそのもののやうにおもへてきた。わたしの眼には人間の姿は殆ど見えなくなつた。影のやうなものばかりが動いてゐるのだ。影のやうなものばかりのなかに、無数の足音が、……それだけがわたしをぞくぞくさせる。足音、足音、ど
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