だ。僕はもつと探してみたい。嘆き? 人生でたつた一つ美しいのは嘆きなのだらうか。
 それから僕は彷徨つて行つた。僕はやつぱし何かを探してゐるのだ。僕が死んだ母のことを知つてしまつたことは僕の父に知られてしまつた。それから間もなく僕は東京へやられた。それから僕は東京を彷徨つて行つた。東京は僕を彷徨はせて行つた。(僕のなかできこえる僕の雑音……。ライターが毀れてしまつた。石鹸がない。靴の踵がとれた。時計が狂つた。書物が欲しい。ノートがくしやくしやだ。僕はくしやくしやだ。僕はバラバラだ。書物は僕を理解しない。僕も書物を理解できない。僕は気にかかる。何もかも気にかかる。くだらないものが一杯充満して散乱する僕の全存在、それが一つ一つ気にかかる。教室で誰かが誰かと話をしてゐる。人は僕のことを喋つてゐるのかしら。向側の舗道を人間が歩いてゐる。あれは僕なのかしら。音楽がきこえてくる。僕は音楽にされてしまつてゐる。下宿の窓の下を下駄の音が走る。走つてゐるのは僕だ。以前のことを思つては駄目だ、こちらは日毎に苦しくなつて行く……父の手紙。父の手紙は僕を揺るがす。伊作さん立派になつて下さい立派に、……伯母の声だ。その声も僕を揺るがす。みんなどうして生きて行つてゐるのかまるで僕には見当がつかない。みんな人間は木端微塵にされたガラスのやうだ。世界は割れてゐる。人類よ、人類よ、人類よ。僕は理解できない。僕は結びつけない。僕は揺れてゐる。人類よ、人類よ、人類よ、僕は理解したい。僕は結びつきたい。僕は生きて行きたい。揺れてゐるのは僕だけなのかしら。いつも僕のなかで何か爆発する音響がする。いつも何かが僕を追かけてくる。僕は揺すぶられ、鞭打たれ、燃え上り、塞きとめられてゐる。僕はつき抜けて行きたい。どこかへ、どこかへ)それから僕は東京と広島の間を時々往復してゐるが、僕の混乱と僕の雑音は増えてゆくばかりなのだ。僕の中学時代からの親しい友人が僕に何にも言はないで、ぷつりと自殺した。僕の世界はまた割れて行つた。僕のなかにはまた風穴ができたやうだ。風のなかに揺らぐ破片、僕の雑音、雑音の僕、僕の人生ははじまつたばつかしなのだ。ああ、僕の雑音のかなたに一つの澄みきつた歌ごゑがききとりたいのだが……。

 伊作の声がぷつりと消えた。雑音のなかに一つの澄みきつたうたごゑ……それをききとりたいと云つて伊作の声が消えた。僕はふらふらと歩いてゐる。僕のまはりがふらふらと歩いてくる。群衆のざわめきのなかに、低い、低い、しかし、絶えまなくきこえてくる、悲しい、やはらかい、静かな、嘆くやうに美しい、小さな小さな囁き、僕もその囁きにきき入りたいのだが、……。やつぱし僕のまはりはざわざわ揺れてゐる。揺れてゐるなかから、ふと声がしだした。お絹の声が僕にきこえた。

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〈お絹の声〉
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 わたしはあの時から何年間夢中で走りつづけてゐたのかしら。あの時わたしの夫は死んだ。わたしの家は光線で歪んだ。火は近くまで燃えてゐた。わたしの夫が死んだのを知つたのは三日目のことだつた。わたしの息子はわたしと一緒に壕に隠れた。わたしは何が終つたのやら何が始つたのやらわからなかつた。火は消えたらしかつた。二日目に息子が外の様子を見て戻つて来た。ふらふらの青い顔で蹲つた。何か嘔吐してゐた。あんまりひどいので口がきけなくなつてゐたのだ。翌日も息子はまた外に出て街のありさまをたしかめて来た。夫のゐた場所では誰も助かつてゐなかつた。あの時からわたしは夢中で走りださねば助からなかつた。水道は壊れてゐた。電燈はつかなかつた。雨が、風が吹きまくつた。わたしはパタンと倒れさうになる。
 足が、足が、足が、倒れさうになるわたしを追い越してゆく。またパタンと倒れさうになる。足が、足が、足が、倒れさうになるわたしを追い越してゆく。息子は父のネクタイを闇市に持つて行つて金にかへてもどる。わたしは逢ふ人ごとに泣ごとを云つておどおどしてゐた。だがわたしは泣いてはゐられなかつた。泣いてゐる暇はなかつた。おどおどしてはゐられなかつた。走りつづけなければ、走りつづけなければ……。わたしはせつせつとミシンを踏んだ。ありとあらゆる生活の工夫をつづけた。わたしが着想することはわたしにさへ微笑されたが、それでもどうにか通用してゐた。中学生の息子はわたしを励まし、わたしの助手になつてくれた。走りつづけなければ、走りつづけなければ……。わたしの夢のなかでさへさう叫びつづけた。
 突然、パタンとわたしは倒れた。わたしはそれからだんだん工夫がきかなくなつた。わたしはわたしに迷はされて行つた。青い三日月が焼跡の新しい街の上に閃いてゐる夕方だつた。わたしがミシン仕事の仕上りをデパートに届けに行く途中だつた。わたしは雑沓のなかで
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