つた。堕ちたくなかつた。僕は人の顔を人の顔ばかりをよく眺めた。彼等は僕を受け容れ、拒み、僕を隔ててゐた。人間の顔面に張られてゐる一枚の精巧複雑透明な硝子……あれは僕には僕なりにわかつてゐたつもりなのだが。
 おお、一枚の精巧複雑透明な硝子よ。あれは僕と僕の父の間に、僕と僕の継母の間に、それから、すべての親戚と僕との間に、すべての世間と僕との間に、張られてゐた人間関係だつたのか。人間関係のすべての瞬間に潜んでゐる怪物、僕はそれが怕くなつたのだらうか。僕はそれが口惜しくなつたのだらうか。僕にはよくわからない。僕はもつともつと怕くなるのだ。すべての瞬間に破滅の装填されてゐる宇宙、すべての瞬間に戦慄が潜んでゐる宇宙、ジーンとしてそれに耳を澄ませてゐる人間の顔を僕は夢にみたやうな気がする。僕にとつて怕いのは、もう人間関係だけではない。僕を呑まうとするもの、僕を噛まうとするもの、僕にとつてあまりに巨大な不可知なものたち。不可知なものは、それは僕が歩いてゐる廃墟のなかにもある。僕はおもひだす、はじめてこの廃墟を見たとき、あの駅の広場を通り抜けて橋のところまで来て立ちどまつたとき、そこから殆ど廃墟の全景が展望されたが、ぺちやんこにされた廃墟の静けさのなかから、ふと向うから何かわけのわからぬものが叫びだすと、つづいてまた何かわけのわからないものが泣きわめきながら僕の頬へ押しよせて来た。あのわけのわからないものたちは僕を僕を僕のなかでぐるぐると廻転さす。
 僕は僕のなかでぐるぐる探し廻る。さうすると、いろんな時のいろんな人間の顔が見えて来る。僕にむかつて微笑みかけてくれる顔、僕をちよつと眺める顔、僕に無関心の顔、厚意ある顔、敵意を持つ顔、……だが、それらの顔はすべて僕のなかに日蔭や日向のある、とにかく調和ある静かな田園風景となつてゐる。僕はとにかく、いろんなものと、いろんな糸で結びつけられてゐる。僕はとにかく安定した世界にゐるのだ。
 ジーンと鋭い耳を刺すやうな響がする。僕のゐる世界は引裂かれてゆく。それらはない、それらはない! と僕は叫びつづける。それらはみんな飛散つてゆく。破片の速度だけが僕の眼の前にある。それらはない! それらはない! 僕は叫びつづける。……と、僕を地上に結びつけてゐた糸がプツリと切れる。こんどは僕が破片になつて飛散つてゆく。くらくらとする断崖、感動の底にある谷間、キラキラと燃える樹木、それらは飛散つてゆく僕に青い青い流れとして映る。僕はない! 僕はない! 僕は叫びつづける。……僕は夢をみてゐるのだらうか。
 僕は僕のなかをぐるぐるともつと強烈に探し廻る。突然、僕のなかに無限の青空が見えてくる。それはまるで僕の胸のやうにおもへる。僕は昔から眼を見はつて僕の前にある青空を眺めなかつたか。昔、僕の胸はあの青空を吸収してまだ幼かつた。今、僕の胸は固く非常に健やかになつてゐるやうだ。たしかに僕の胸は無限の青空のやうだ。たしかに僕の胸は無限に突進んで行けさうだ。僕をとりまく世界が割れてゐて、僕のゐる世界が悲惨で、僕を圧倒し僕を破滅に導かうとしても、僕は……。僕は生きて行きたい。僕は生きて行けさうだ。僕は……。さうだ、僕はなりたい、もつともつと違ふものに、もつともつと大きなものに……。巨大に巨大に宇宙は膨れ上る。巨大に巨大に……。僕はその巨大な宇宙に飛びついてやりたい。僕の眼のなかには願望が燃え狂ふ。僕の眼のなかに一切が燃え狂ふ。
 それから僕は恋をしだしたのだらうか。僕は廃墟の片方の入口から片一方の出口まで長い長い広い広いところを歩いて行く。空漠たる沙漠を隔てて、その両側に僕はゐる。僕の父母の仮りの宿と僕の伯母の仮りの家と……。伯母の家の方向へ僕が歩いてゆくとき、僕の足どりは軽くなる。僕の眼には何かちらと昔みたことのある美しい着物の模様や、何でもないのにふと僕を悦ばしてくれた小さな品物や、そんなものがふと浮んでくる。そんなものが浮んでくると僕は僕が懐しくなる。伯母とあふたびに、もつと懐しげなものが僕につけ加はつてゆく。伯母の云つてくれることなら、伯母の言葉ならみんな僕にとつて懐しいのだ。僕は伯母の顔の向側に母をみつけようとしてゐるのかしら。だが、死んだ母の向側には何があるのか。向側よ、向側よ、……ふと何かが僕のなかで鳴りひびきだす。僕は軽くなる。僕は柔かにふくれあがる。涙もろくなる。嘆きやすくなる。嘆き? 今まで知らなかつたとても美しい嘆きのやうなものが僕を抱き締める。それから何も彼もが美しく見えてくる。嘆き? 靄にふるへる廃墟まで美しく嘆く。あ、あれは死んだ人たちの嘆きと僕たちの嘆きがひびきあふからだらうか。嘆き? 嘆き? 僕の人生でたつた一つ美しかつたのは嘆きなのだらうか? わからない、僕は若いのだ。僕の人生はまだ始つたばかりなの
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